放課後は
さくら野貿易
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ハマっ子ノスタルジー

       
      

     
 「運び屋」
 (第95話)

 ソ連時代、出張といえばいつも大荷物をかかえていた。
 モスクワでのビジネスはプラント機械輸出が中心だった。ソ連の公団への提案書に機械類のカタログを添付し、ぶ厚いファイルにまとめる。
 ファイルは10部を超えた。なにしろモスクワには、提携する専門商社の事務所に小さいゼロックスのコピー機が1台あるきりだった。すべてを日本で準備する必要があった。
 最初は上司の出張をサポートし、やがて自分も同じようにカートンケースを積み上げた。
 さらに食料品とロシア人へのお土産が加わった。年末にはカレンダーだけで2、3ケースになった。
 結局出張のたびに、自分の大型スーツケース以外カートン10個以上、総重量で百キロを超えるのが日常だった。会社はビジネスクラスを容認してくれたが、これはエクセスをオマケしてもたうことが主目的だった。
 モスクワの空港で最初の重労働が待っていた。台車もほとんどなく、自分で2個ずつカートンを持って税関まで往復した。
 新入社員のとき、上司にカートンの持ち手を作るのをやかましく指導された理由が、実感としてすぐわかった。
 税関でいくつか開梱を要求され、カレンダーやお土産が見つかるといくつか没収された。
 飛行機が着いてから空港をでるまで数時間、ホテルに着いて仕事が半分終わった気になった。
 プラント建設指導の現場出張はさらにひと仕事である。地方都市向けの空港や駅にまた同じ荷物を運んだ。
 モスクワにはかろうじて外国人向けのスーパーがあり、欧米の缶ビールも買えたが、地方都市では泡のたたない生ビールを容器を持って買いにいくしかなかった。
 十人あまりの日本人据付指導員のために、一度ビールの買出しのためだけに一人でモスクワに夜行列車で往復した。
 一度にもっとも大量に運んだのはサンクトペテルブルグで大きな見本市をやった後である。私ともう一人で、約40個のカートンケースを夜行列車でモスクワに運んだ。コンパートメント一部屋を荷物室にした。ここは貨物車じゃないと文句を言う車掌のおばさんを日本製のパンストでなだめた。
 もっとも疲れたのはハバロフスクの駅だった。ポーターが見つからずウラジオ行きの夜行列車の発車も迫って、凍ったプラットフォームを滑りながら走って何度も荷物を運んだ。ようやく間に合って自分の席で昏倒した。
 ロシアビジネスで、競合他社であっても頼まれた書類は託送するのが業界の不文律だった。郵便など信用できず、手で運ぶのが一番確実な時代だった。
 当然帰りは軽くなったスーツケース1個になる。他社に頼まれた書類以外に、日本人女性と結婚し日本に住み始めた息子あてにお母さんから、手作りのロシア料理を届けるようよく依頼された。
 一度ニンニク臭が完全に衣類についてしまったことがあった。それを酒の席でつい口にしてしまい、大変恐縮がられた。すぐに口にした自分の軽率さを後悔した。遠く離れた親子の間の「運び屋」として、ニンニク臭の背広などたいした問題ではないはずだった。
 サハリンがオープンになり、長期滞在するようになって、徐々に朝鮮韓国人の老人から日本語で声をかけられるようになった。
 朝鮮人と結婚してサハリンに残った日本人女性から、親族への手紙を託されたことがあった。日本に着いてから郵送してくれというのである。郵便事情の悪さ以外に、未だに当局に開封されるのを恐れていらしたのかもしれない。
 彼女の真剣な眼差しに、「新潟に着いたらすぐ空港から送ります」と答え、差し出されたルーブル紙幣を断った。

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