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ハマっ子ノスタルジー

       
      

     
 「ウラジオが開いた日」
 (第96話)

 表題のコラムを「月刊ロシア通信」という業界誌に掲載した。そのまま無許可で転載する。
 私は「浜っ子」で昭和と、ほとんど重なるソ連時代の個人史を書いてきた。その最後の時期である。ソ連がなくなって私の仕事の舞台はロシア極東になった。その端緒となったウラジオストク訪問だった。
 その後私はウラジオに約3年半住んだ。横浜以外に住んだ唯一の町である。
 業界誌に与えられたスペースでは書ききれなかったことを、括弧で追記する。

 修学旅行みたいに皆興奮していた。
(ソ連時代は1個の契約の規模も大きかったし、大人数でダンゴになって出張することが多かった。麻雀牌と簡易卓は必需品だった)
 まだペレストロイカの時代である。すでにウラジオに外交官やメデイアは訪問していたようだが、ようやくビジネスマンが入れるようになったのが日本産業見本市(こんな呼称だったと記憶している)であった。
(ソ連時代見本市に参加するのも大きな仕事だった。一般のロシア人と接する貴重な機会でもあった)
 出品者、参加者は新潟に集合、チャーター便で直接飛んだ。飛行機の中ですぐに宴会が始まった。社員旅行のノリだった。
(この見本市のあと、ウラジオへの直行定期便ができるまでさらに数年かかった。新潟からハバロフスクに飛んで一泊、さらに夜行列車でウラジオに行った。横浜ナホドカ航路もまだ就航していて、これも二泊三日だった)
 今まで交渉はすべてモスクワで、極東の生産者と接するのも、他人行儀な公団の会議室だった。ウラジオが開きさえすれば、そこがビジネスの拠点になるのは明白だった。
(ウラジオは軍港で、外国人はおろか、一般ロシア人もはいることができなかった。仕事が水産業なので、待望度はより強かった)
 当時私は大手水産会社のソ連部門で、主に水産関連の設備輸出を担当していた。据付現場を視察するために、稚内から眼と鼻の先のサハリンコルサコフにモスクワ経由で行った。
(北海道の北端とわずか20キロくらいのところに行くために、地球半周往復したのである。サハリンからの帰途はハバロフスク経由だったが)
 ウラジオ空港からチャーターバスに乗せられた。前後パトカーつきである。バスの中でも当然のように宴会が続く。道の途中で、会社の同期の友人が、トイレに行きたいからバスを停めてくれと運転手に懇願した。近くにトイレがあるわけでもなく、彼がバスの陰で立ちションをしていると、5,6人がぞろぞろと並んだ。
(ロシアの公衆トイレは感動的に汚いが、立ちションの習慣は無い。初めての外国人で大目に見てくれたのであろう)
 宿舎はウラジオストクホテルだった。各々の参加グループごと一室に集まってさらに宴会が続いた。
(ウラジオホテルの隣の船員宿舎のようなホテルに3年半住んだ。日本からの出張者は私の部屋が宴会場になった)
 次の日の夕刻、見本市の日本側主催者が各グループの代表を集めた。ロシア側から2点注意があったそうだ。
 1点目は一人の日本人が市内で隠し撮りしたというのである。
 聞くところによれば、その方のご尊父は戦前ウラジオでお寺の住職をなさっており、その寺の跡地で、腰の位置にカメラをかまえて撮ったのだそうだ。
 市内の写真撮影は自由だからコソコソ撮らないでくれという注意だった。
(ソ連時代、写真撮影はとにかくうるさかった。ウクライナの地方都市のホテルで、メーデーの日、表通りに面した部屋を追い出されたことがある。メーデーの行進を上から撮られるのをいやがったのであろう)
 2点目は私のグループの一人の笑い話である。
 昨夜お湯をもらおうと鍵番をたずねたが居らず、奥の部屋で仮眠をとっていたオバサンを起こしたそうだ。ところが彼はステテコ姿で、オバサンはひどくびっくりし、事件となったのである。
 ステテコ姿で歩き回るのはやめてくれという当然の注意だった。
(ロシアのホテルは各階のエレベーターホールに必ず一人オバサンが座っていて、そこで鍵を受け取るシステムだった。お湯や紅茶もそこでもらうことができた)
 見本市は盛況だった。子供たちに配るお土産を持ってくるのを失念して、やむをえず魚肉ソーセージを一本ずつ配った。
(酒やポケットヌードカレンダーはふんだんに持っていっていた)
 ウスリー湾に面した会場は暖かく、明るい夏の日だった。
(冬はきつかった。混乱期で暖房も満足になく、二重窓の部屋のなかで電気毛布にくるまって凍えていた。ただウラジオがオープンになった当初は、ロシア人も我々も「もっとよくなる」という希望に満ちていた。現実はそれなりに大変だったけど)

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