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さくら野貿易
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ハマっ子ノスタルジー

       
   

     
 「中華街の迷宮」
 (第97話)

 横浜中華街の話である。
 店の位置関係をはっきりするために、店名はすべて実名で書く。
 実家の法事のあと、使う店は「華勝楼」と決まっていた。それは今でも変わらない。日本人向けの味付けも不変である。
 華勝楼は他の老舗店のように、新館とか別館といった品のない増殖はしなかった。ただし店の裏の土地を買い足していって、裏通りに到達してそこで拡張をやめた。
 父は華勝楼の表通りをはさんだ向かいの「海南飯店」がひいきだった。「ねぎそば」が絶品だと言っていた。海南飯店は何故か拡張も増殖もせず、ひっそりと表通りに今でも存在している。
 そもそも子供のころ表通り以外歩いたことが無かった。母は、子供が裏通りを歩いていると人さらいに会って、貨物船に乗せられて香港あたりに売られると、幼い私をからかった。
 港に近いこの街では、妙にリアリテイがあった。表通りからおそるおそる路地を覗くと、暗い裸電球の街灯が水溜りに写っていた。
 友人と中華街に行くようになったのは、畏友Hの本牧の家を根城にして、酒を飲み始めた高三から浪人にかけてのころである。
 Hと当時から有名だった「海員閣」に向かった。表通り以外の店を始めて目指したのである。
 ところが店の前に並ぶ行列の長さに辟易して、向かいにあった「順海閣」という店で妥協することにした。何の変哲も無い中規模の店で、客も少なかった。
 メニューには無かったが、大盛り焼きそばと大盛りチャーハンをオーダーして、まず運ばれたスピードにびっくりした。客の少なさを差し引いても、バケツかなんかに作り溜めしているのではと疑うに十分な速さだった。さらに量に驚愕した。「馬に食わせる」くらい大きな皿にプレスするように盛られた量に感動した。
 味は二の次の年頃だった。海員閣の行列を横目にみつつ順海閣に通うようになった。
 一度、畏友Hと温厚な砲丸選手Okが食べ比べをすることになった。私はずるくも立会人になった。
 両名とも大盛りチャーハン二杯完食したが、Hは青ざめてしばらく立つことができず、平然と楊枝を使うOkに軍配があがった。
 あるとき数人で食べ終わって外に出ると、誰も勘定をしていなかったことが分かった。突然当時荒れていた陸上長距離のNがダッシュした。あわてて全員が追いかけた。Nは巧妙にも路地の角を頻繁に曲がりつつ逃げた。
 しばらく順海閣には近づかなかった。一年くらい経っておそるおそる店に入ると覚えられてはいなかった。
 贖罪の意味もあったかもしれない、それ以上に大盛りチャーハンは捨てがたかったからだろう、年二回お盆どきと晦日の日に、順海閣の二階で、高校サッカー部同期の宴会を開くようになった。サッカー部以外の友人も加わり、毎回30人以上が愚直に年二回順海閣に通った。
 海外駐在から一時帰国のKdは、酒にラー油を入れられ、怒って犯人を追い掛け回して、鴨居に頭をぶつけて昏倒した。不必要に背が高いのが災いした。
 野生児センターフォワードのGは二階の窓から吐いた。
 吐いたのは、今は「梅蘭本店」のある路地のそのまた路地で、まだ舗装もされておらず、人通りもなかったのが幸いした。
 順海閣は20年以上通い、中華街の観光地化を上回る速度で、その間新館、別館、おみやげ館と発展していった。
 柱のひとつくらいは我々の貢献であると、食い逃げしたのを差し引いて、二十数年の総額を食い逃げ仲間で計算した。
 やがて、横浜青年会議所に入会した元いじめられっ子で万年幹事のObが、会議所つながりの「新新」という店を提案し、そこに年二回の宴席は移った。
 四十を超えて表通りに戻ってきたのである。

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