放課後は
さくら野貿易
放課後のページ

さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第19葉(巻13・3317)

 馬買はば いも歩行かちならむ よしゑやし 石はむとも 二人ふたり行かむ

 馬を買ったら、私はよいとして妻は徒歩だろう。ままよ、石を踏んで辛くはあっても、私は二人で歩いて行きたい。(中西進博士の現代語訳)

 夫婦がいました。これは夫の歌ですが、前段に妻の歌があります。それによれば、妻は悲しい思いをしていました。よその夫は馬に乗って道を行くのに、自分の夫には馬がない。いつも歩いている。それを見ると泣けてくるのです。彼女は考えました。自分にはきれいな鏡と透き通った領巾ひれ(ショール)がある。どちらも高価な品物で、大切な母の形見です。夫よ、これを市場へ持っていき、馬を買いなさい。妻は夫にそう言ったのです。
 夫に馬を買わせたことで有名なのは
山内一豊やまうちかずとよの妻ですが、その千年も前の万葉時代から妻はそうしていたのです。日本の妻はえらいですね。

 次に夫の方ですが、戦国武将の山内一豊は妻のおかげで駿馬を得ました。それに対して万葉の無名の夫は、妻の申し出を断わりました。それがこの歌です。

 馬買はば
いも歩行かちならむ よしゑやし 石はむとも二人ふたり行かむ

 「よしゑやし」は、あきらめきれないけれども、まあ仕方ないか、という気持ちを表す言葉で、「えーい、ままよ」みたいな感じ。
 妻も泣かせるけど、夫も泣かせます。O.ヘンリーの短編になりそうな夫婦ではありませんか。ちがうところは、こっちの方は七、八世紀の韻律詩だということ。


【古語散策】

 馬買はば
いも歩行かちならむ よしゑやし 石はむとも二人ふたり行かむ

 「む」という助動詞は英語の will に似たところがあります。この歌には二箇所、その「む」が使われています。「妹歩行なら」は推量を表し、「彼女はたぶん徒歩だろう」。「吾は二人行か」は意志を表し、「私は彼女と一緒に歩いて行きたい」。
 「む」は未来も表します。考えてみれば、未来のことは推量するしかなく、推量も未来も似たようなものです。さらに、自分の未来を語るとき、それは往々にして意志の表明になります。未来と推量と意志がひとつの助動詞でまかなえるのは、洋の東西を問わず、理由のあることなのかもしれません。不思議なことに、そんな助動詞が現代日本語では無くなっています。欧米の学者が日本の古典を研究するとき、現代日本人よりも、ある意味、馴染みやすいかもしれませんね。

 「む」を使った歌で、推量、意志、未来の例を一首ずつ挙げておきます。

 
磐代いはしろの浜松がを引き結び 真幸まさきくあらばまた還り見 (巻2・141)
(磐代の浜松の枝を結んでわが身の無事を祈るが、無事であれば帰途また見ることだろう)

 
熟田津にきたつに船乗りせと月待てば しほもかなひぬ 今は漕ぎい出でな (巻1・8)
(熟田津の港で船出しようと月を待てば、やっと潮も満ちた。今こそ出航しようではないか)

 
旅人たびびと宿やどりせ野にしもらば わが子ぐくめ あめ鶴群たづむら (巻9・1791)
(旅人が宿るであろう野に霜が
りたら、一行の中にいる私の息子を羽で包んでおくれ、空ゆく鶴たちよ)




『万葉恋歌』掲載一覧

【これまでのさくら野歌壇】
2007年 2006年 2005年 2004年 2003年 2002年 2001年