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さくら野文壇 

【第12作目】

   
  
初雪

 十月の半ば過ぎ、ロシアに初雪が降りました。夕方からの風雨が夜には吹雪に変わり、朝起きたら、町は雪に埋もれていたのです。
 この時期、木々はまだ完全には落葉を終えておらず、山のところどころに残った黄葉や枯葉が、白雪に映えてきれいです。雲が去った空は、やわらかな水色をしています。やわらかいのは天然の色ばかりではありません。家々の外壁の色は、あれはたぶん家人が選んだペンキの色なのでしょうが、うぐいす色やうすみどり、ベージュ色やほのかな黄色、そういった淡い中間色ばかりです。空といい、山といい、町といい、視界の中に原色がありません。ロシアの色彩はすべてが淡い。
 ロシアは昔からこういう色の国だったのでしょう。極東の田舎町に限らず、西の古都・サンクトペテルブルクの街並みも同じ色合いをしています。淡い色彩は冬に限ったことでもありません。春の緑はサラダ色。あれを北国の緑というのでしょう。夏になって緑は少し色を増しますが、日本のように濃緑になることはない。清楚なその緑葉が、秋には黄金色に変わります。紅葉ではありません。銀杏のような黄色です。
 そんな色をした国に、八〇年前のある日、革命の赤旗が立ったときは、さぞかし強烈に目立ったことでしょう。今では赤旗は消えましたが、代わりにコカコーラの真っ赤な看板がときどき目に入り、そこだけロシアの風景に亀裂が入ったようになっています。コカコーラだけでなく、マクドナルドも赤、ケンタッキーも赤。アメリカ人は赤の原色が好きなようです。こと色彩に関して言うならば、赤旗はアメリカにこそ似合っているのではないか。
 ロシアの色が淡い中間色であるとすれば、日本の色は緑です。さまざまなタイプの緑に日本はつつまれています。日本の山は冬になっても緑を失うことがない。杉が植林されているからではありません。日本では放っておいても常緑樹が生えてくる。冬も濃緑の葉をつけた椎や樫の高木はよく目立ちますが、それだけではありません。落葉樹が葉を落とした後の雑木林を見てください。下の方で山椿や馬酔木が緑を保っている。都会の金持ちの庭であれ、田舎の農家の庭であれ、日本の庭には常緑樹が欠かせないようです。列車に乗って外を眺めていると、そういうことがよくわかります。ときおり視界の一点に鬱蒼とした緑の密集地が登場するときは、それはたいがい鎮守の森です。日本中どこでも、北に行けば針葉樹、南に下がれば常緑の照葉樹といった具合で、緑が途切れることがない。冬でさえこうなのですから、春から後は言うまでもありません。日本は緑の国だと私は思います。
 ロシアにも針葉樹があるではないか、と思われるでしょうが、不思議なことに、ロシアの針葉樹林は相当北へ行かなければお目にかかれません。そこまで行けばタイガと呼ばれる針葉樹林帯が広がっているのですが、そこへ行くまでは落葉樹ばかりなのです。葉を落とした木々の色は灰色です。山も灰色、街路も灰色、雪がなければ冬の景色は全部くすんだ灰色です。そんなわけで、雪が来る前の初冬の風景や、雪が融けだす初春の景色といったら悲惨なものです。泥と灰色に覆われた町は中途半端に寒く、ロシア人もこの時期は嫌っています。でも、今年は初雪が早かったので、そういう灰色の初冬を経ることもなく、枝に枯葉が残っている段階から一足飛びに雪景色に変わりました。雪はロシアを美しくします。
 初雪の日、朝方の気温はマイナス10度ぐらいだったのですが、昼には零度前後まで緩みました。ロシアにいて気温が正確にわかるのは、その日の寒暖をロシア人が数字で表現するからです。日本なら「寒いですねえ」と言うところを、ロシア人は「今朝はマイナス10度です」と言う。「寒さがゆるみましたね」と言うかわりに、「今はマイナス2度です」とくる。街のところどころに設置してある寒暖計や、テレビ・ラジオの情報から、ロシア人はその日の気温を知るのですが、その数字が体感に刻まれているらしくて、別に温度計など見なくても、彼らはほぼ正確に気温を言い当てます。困るのは、日本の気温を尋ねられることです。「東京はこんなに寒くない」とは言えても、それが摂氏何度であるかは答えられない。「うーん」とうなる私をロシア人は不思議そうな目で見ます。
 ロシア人が数字にこだわるのは、彼らの頭脳が数学的になっているとか、日本人はあいまい表現を好むとか、そういう問題ではなくて、私は単に形容詞の数の問題だと思っています。ロシアの寒暖を表現するには形容詞が不足しているのです。
 日本語でもロシア語でも、寒暖を表す主な形容詞は、「寒い」「涼しい」「暖かい」「暑い」の四つです。日本の気候は、たとえば東京近辺では、普通はだいたい零度から30度ぐらいまでだから、この温度帯を適当なところで四つに区切って、四つの形容詞を当てておけば事足りる。しかし普通でなくなると、つまり気温がこの温度帯からはみだすと、日本人も数字を使います。「群馬は40度を超えた」とか、「東京が氷点下になった」とか。
 このように、人が数字で寒暖を表現するときは、普通でないときです。ロシア人がいつも気温を数字で表すのは、ロシアの気温がいつも普通でないからです。年がら年中とまでは言わないけれど、少なくとも一年の半分は氷点下であり、しかもその程度が尋常ではない。たとえばマイナス20度に近づくと、寒いというより痛い。私もマイナス20度は体感でわかるようになっていますが、その端的な兆候は鼻の穴が凍ること。だからマイナス20度をありあわせの言葉で表現するとすれば、「鼻毛が凍るほど寒い」ということになります。ではマイナス20度を超える寒さはどうか。これはもう、空気そのものが凍っている感じ。言葉を発しても途中で凍って地面に落ち、相手に届いていないのではないかと心配になる。こんな風に言葉を費やして表現していくと、マイナス10度は「きりりと体が引き締まる寒さ」、マイナス5度は「気が抜けた寒さ」、という風に、まことにややこしい。というか、言語として普遍化しがたい物言いになってくる。とてもやってられません。ロシア人もきっとそうなのでしょう。だから数字のお世話になる。「マイナス20度」と一言いえば、凍気が体に突き刺さる感覚も、鼻毛が凍るありさまも、吐く息が瞬時に口のまわりで凍りつく様子も、それらすべてがわかります。
 一言で感覚的な理解を伝えるのは、本来、形容詞が担うべき役割です。ところがマイナス10度、20度等々を区別して表現する形容詞などありません。ロシア語にはあってもいいとは思うけれど、やっぱりロシア語にも「寒い」しかない。そこのところを数字が補っているのです。ロシア人の言う気温は、単なる物理学上の数値ではなく、形容詞の一種だと私は考えています。
 ロシア人が駆使するこの数字の形容詞、威力を発揮するのは寒いときだけで、おもしろいことに、暑くなると冴えなくなる。まず精度が落ちます。冬はズバリと気温を言い当てるロシア人も、春から後はかなりいい加減です。気温がさらに上がると、彼らは「30度」という数字を連発するようになる。実際の気温が何度であるかは別として、要するに「強烈に暑い」という意味の形容詞が「30度」なのです。
 初雪の日の連想が、夏の30度にまで拡散してしまいました。話を初雪に戻します。
 先日、東京にも初雪が降りました。そのとき私は日本にいなかったのですが、東京の雪のことがロシアでも紹介されたらしく、ひとしきり話題になっていました。何百人もが転んだとか、雪道の歩き方をテレビで教えていると言って、ロシア人たちはみんな腹を抱えて笑っておりました。

(本稿は、風人社 "KAZESAYAGE"2003年1月号に掲載されたものを一部訂正しました)
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