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さくら野文壇 

【第9作目】

お早う、極東の海のタラバガニ君!
旧ソ連時代にキミの故郷からバレンツ海にキミの仲間が大勢移植されていた。
現代なら、外来種の安易な持ち込みと厳しく批判されかねない出来事が
鉄のカーテンの内側で秘密裏に行われていたわけだ。
そこで、今回のキミの任務だが・・・
キミの仲間の一部を過疎化が顕著な極東の海に連れ戻してもらいたい。
例によって、キミ、もしくは、キミのメンバーがノルウェー漁船に捕えられ、
或いは、食べられたとしても、当局は一切関知しないからそのつもりで。
尚、このテープは自動的に消滅する。
成功を祈る!


バレンツ海のカニ

 タラバガニは北海道の特産品ということになっていますが、ロシアから大量に輸入されています。売り場などで「北海道産」と表示されていても、ロシア原産のものが多い。ただし、これは偽装表示ではありません。国が定めた食品表示の規則では、加工した場所が産地になります。カニは茹でれば加工とみなされる。だから、ロシアのカニであっても、北海道で茹でれば「北海道産」になってしまうのです。
 タラバガニはその大きさのゆえに、英語ではキング・クラブといいますが、ロシア語では生息地をとってカムチャツキー・クラブ(カムチャッカのカニ)といいます。この名前の通り、カムチャッカ半島の周辺はタラバガニの宝庫です。世界のタラバガニの大部分がここに生息しているのです。ところが、最近は以前ほど獲れなくなりました。体も小さくなった。明らかに資源衰退の傾向が見られます。たぶん獲り過ぎたのでしょう。この事態を受けて、ロシア政府は漁業規制と資源管理を強めています。しかし、すぐの効果を期待するわけにはいきません。タラバガニは十年以上かけてあの大きな体躯になるのです。成長に長い時間がかかるということは、資源の回復にも同様に時間がかかるということです。
 カムチャッカ半島周辺のタラバガニ資源があぶないというのは、私どもも以前から気づいていました。そこで新たなタラバガニ漁場を探していたところ、バレンツ海にタラバガニがいるという話が飛び込んできました。
 バレンツ海というのは、北欧の、スカンジナビア半島のてっぺんの、その北側に広がる海です。そこは北極圏。そんな極北の海にタラバガニがいるというのも驚きですが、そこのタラバガニはとてつもなく巨大であるらしい。人間の大人より大きいという。半信半疑ながら、ともかくこの目で見てみようと、私たちは現地に行ってみました。そして北緯七〇度のロシアの港町で、巨大なタラバガニを確認したのです。
 タラバガニは北太平洋の固有種です。本来なら北太平洋にしか生息しません。そこから遠く離れたバレンツ海などにいるはずのないカニであり、事実かつてはいなかった。これが今いるのは、海底を自分で歩いてやってきたのかといえば、さにあらず。彼らはロシアの飛行機でやってきた。カムチャツカでつかまえたタラバガニをバレンツ海に放流したのです。ロシア人というのは、ときどきとんでもないことを思いつく。
 ロシアの海洋生物学者イワン博士によれば、バレンツ海でタラバガニを育てる試みは、およそ三十年前に始まりました。カムチャッカから飛行機でカニの赤ちゃんが運ばれ、卵を抱えたお母さんガニが運ばれました。はじめのころは結果は全然かんばしくなかったのですが、ソ連時代の強固な意志と頑固きわまりない組織によって、せっせと放流が続けられ、着手から二十年ほども経った一九九〇年頃になって、やっとバレンツ海でタラバガニ資源が形成されたのです。目立って資源が増えてきたのは最近のことです。
 このようにして創出されたバレンツ海のタラバガニ資源は、現在、ロシアと隣国のノルウエーによる科学調査漁業だけが許されています。科学調査漁業の数量は、どういうわけかノルウエーの方に多く配分されている。加えて、科学調査以外に、ノルウエーの漁民がかなりの数量を勝手に漁獲しているらしい。イワン博士は、ノルウエー人はなんと海底まで届く網を垂らしてタラバガニを一網打尽にしている、と、怒りに震える手で一枚の写真を見せてくれました。それはノルウエーの雑誌が掲載したノルウエー漁船の漁獲風景でした。タラバガニが鈴なりに網にかかっていました。
 放流事業に関与していないノルウエーがなぜ科学調査に参加し、しかもロシアより多く獲っているのか、ノルウエー漁民の乱暴な漁法をなぜロシアは禁止できないのか、それをイワン博士に訊ねても、彼は不満そうに両手を広げるだけでした。
 私はノルウエー側にも言い分があると思う。
 このあたりは国境地帯です。西に向かって一時間も走ったらノルウエーに着いてしまう。こんなところに放流したことがやっかいな問題を引き起こしたのです。
 ロシアで放たれたタラバガニは、どういうわけか西へ向かって歩き出した。警戒の厳重な国境を、横歩きかどうかわかりませんが、ゾロゾロ歩いて突破したのです。精強で知られるノルウエー海軍も、海底で発生したこの異変には気づかなかった。異変を最初に察知したのはノルウエーの漁師でした。彼らは、ロシアから攻めてきたバカでかいカニに度肝を抜かれた。ノルウエー漁民は伝統的に網を海底に垂らして魚を獲っています。その網に欲しくもない化け物ガニがかかるようになったのです。それにこの巨大なカニは、競争相手のいないこの海でますます巨大化し、海底の生き物を食べ尽くしていきました。魚はおろか貝まで食べる。ノルウエー雑誌のあの写真は、「カニがこんなにいるんだぞ。どうしてくれる!」という悲痛なアピールだったのでしょう。ノルウエー政府がこのカニの実態について科学調査に乗り出したのは当然といわなければなりません。
 ロシアから押し出したカニ軍団は、海底で乱暴狼藉をはたらきながら、今も西へ西へと進軍を続けておりまして、現在スカンジナビア半島の西側を南下中です。さぞかしノルウエーは怒っていることでしょう。とはいえ、カニが西を目指すのは、隣国への領土的野心とか、あるいは西側への亡命とか、そういった深刻な意図ではなくて、ノルウエー方面から暖流が流れてくるものだから、単に暖かい方に向かったのだと思われます。実際、バレンツ海のタラバガニ分布を見ると、暖流の流れをさかのぼるようにして広がっています。
 ロシア・ノルウエー間のいざこざのタネとはいえ、はるばるカニを探しに来た私たちはのんきなもので、大きなタラバガニを見て小躍りしました。イワン博士の紹介で、さっそく現地のロシア人たちと提携し、科学調査船が獲ったカニを日本市場に向ける算段に取りかかりました。
 ところが、その直後、あろうことかタラバガニ漁場のど真ん中で、ロシアの原子力潜水艦が沈没したのです。あのクルスク号の惨事です。カニどころの騒ぎではありません。騒ぎが収まった後も、私たちは仕事を再開しませんでした。放射能が心配だったからです。 一年後、懸案の原子炉が引き揚げられました。付近では放射能の異常値は検出されていないといいます。それでも仕事の再開には至っていません。今となっては、バレンツ海のタラバガニが巨大であることが困るのです。日本特有のゴジラ現象とでも申しましょうか、南太平洋の水爆実験で怪獣ゴジラが誕生して以降、私たちのイメージの中で、放射能と巨大生物は切っても切れない関係にあるのです。原潜沈没現場に棲息する途方もなく大きなカニを日本に持ち込んで、「さあ、食べてください」とはちょっと言いにくい。この気分の整理がつかなければ、バレンツ海のタラバガニを取り扱うのは気が引けます。そのことをイワン博士にいくら説明してもわかってもらえませんでした。彼はゴジラを知らないのです。

(本文は、風人社「KAZESAYAGE」2002年7月号に掲載されたものです)

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