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                           ちんすこう
     



 第3話 ”不法入国者”物語

 
 ビジネスに関わるプロは、訪問国の法律厳守は鉄則である。特に入出国法は原点とも言えます。去年の春先、欧米国籍二人の探検隊員がアラスカよりベーリング海峡を渡りロシア領で国境警備隊に逮捕され裁判にかけられた、罪名は不法入国である。
 二人はビザ(出入国許可証)を持っていたが、徒歩で越境中氷原が流された結果、入国ポイントを通りすぎてしまった。つまり、入国したことを示すスタンプがなかったのだ。悪い事には拳銃を持っていた(野獣の中で最も獰猛と言われている白熊対策としては当然だが)。
 判決は有罪(ロシアでは治安機関が告訴した場合、判決は例外なく有罪となる)。世界中から抗議が殺到した、そして、上告が認められ罰金刑で一件落着した。
 <よかった>

 私は1993−94年ロシアに3度も“不法入国”させられた、その時の緊張は生涯忘れる事はないと思います、ここでは一回目についてお話しいたします。
 当時、ヨーロッパ地域で忙しかった、日本を出ると数カ国を飛び回る日程であった、ロシアについては一年間有効の数次ビザを持っていました。
 私はハンブルグ(ドイツ)からタリン(エストニア)に昼頃入国し、夕方までに商談を済ませて、夜行寝台列車でサンクト・ペテルブルグ(ロシア)に向かった。疲れていたが眠れなかった。
 ひとつは、どうせ国境通過時には起こされる。列車の中で入国スタンプをもらうため自分の部屋で待機するというルールがあるから、もうひとつは、ソ連・ロシアでは寝台車輌が縦にゆれる為、(興奮するでもないのに)不慣れのせいか眠れないのである。
 出発してから一時間過ぎた頃、エストニアに入り、税関、入国手続きも大変スムーズに終了した。やはり、エストニアの方が規律正しい民族である、仕事のフェーズも合う。エストニアはフィンランドと同じ民族であり、且つ共通した言語である為にゆっくり話せば互いに理解できる、又ヨーロッパではハンガリーと併せて蒙古系の民族でもある。

 さて、次はロシアの番だ、あの頃から出張にはトランクを使わずに身軽であったので、外貨所持金だけを税関申告書に書き込んで準備も万端、入国手続きが簡単に終了することを期待していた、そして、列車が止まる度にロシアの当局者を待った。
 暫くすると心配になって来た、列車は電信柱を見かけると停車する、その都度、乗客が乗り降りするが入出国手続きはどうしているのか、そうだ、きっと降りてから駅構内でやっているのだと、私が納得した時は夜が明けてきた。
 そして、いよいよ、私を乗せた列車はサンクト・ペテルブルグ鉄道駅に到着した。
 プラットフォームに居る大勢の人を見て私の頭は大混乱をはじめた、そんなはずがない!
私は夜通し起きていたのでロシアの係官を見落としていない、きっと、寒いので入国審査官は駅舎の中にいるのだと思い、出迎えの現地従業員の挨拶も早々に、私は入国手続き窓口を尋ねた。二人ともキョトンとした顔で質問の意味を聞き直した、事情を聞いた従業員の一人が車掌のところに行った。やはり係官が国境地帯で乗車しなかったことが確認されて私はホッとした。入国スタンプをもらっていないのは私のチョンボではない。<よかった>

 ところが、翌日従業員より調査結果を聞かされた私は、初めて状況の深刻さを認識させられたのである。
 ロシアの入出国法律手続きは一切変更していなかったのだ。国境通過時に列車の中で入国手続をすべしと。
 指示を仰ぐ目的で問い合わせした全ての国家機関が、“列車に係官が来なかったなんて、そんなはずがない”とー点張りの返事である、私は虚構の人物、まるでゴーゴリ作“死せる魂”の扱いをされた。
 外で警官にパスポートの提示を求められたら、入国スタンプのない私は即アウトなので、社用車で移動する以外は事務所、社宅より一歩も外出しなかった。そして、出国地のモスクワまでやむをえず車で送ってもらった、まるで映画の世界だ、何とかして日本へ帰るぞ!

 ところが、モスクワでは状況が更に悪化したのである。
 数日走り回った担当従業員がお手上げしてしまったのだ。
 空港税関は本庁扱いと言い、本庁は入国時、外貨を持ち込んだ証明書がなければ、持ち出し審査は財務省の管轄と言い、財務省は本質的に税関扱いのはずとの見解であった、要はたらい回しである。
 国境警備隊本部まで行かせたが担当部所の割り出しさえできなかった。
 “そんなはずがない”、“何故、自分で列車を降りて警備隊まで行かなかったのか“等々、だれも手続きをしようとしない。八方ふさがりである、しかし、何とかして日本で待っている家族の元に帰りたかった、そして、悩んだ末、私は自ら所轄の内務省外国人登録所に出頭し、パスポートとビザを見せて、不法入国者扱いで強制退去手続きを申し入れた。係官が男性でよかった、真っ青な顔でゆっくりと、増刷された分厚いパスポートのページをめくってから、言った一言、“お気の毒だが、協力はできません”。
 この瞬間、私の腹は決まった。

 私は滞在日程を切り上げ、翌日、いつもより早く、3時間前に空港に着いた。
 こうなったら、特攻隊しかない。
 まず税関を通らなければならない。入国時に持参していた外貨の全額を税関申告書に記入し提示した、税関係官はしつこかったが私は一歩も譲らなかった、私服が来た、スタンプのない入国と出国申告書を持って離れて行った、無線機でやりとりしているのが見えた、暫くしてから一言も言わずに通してくれた。
 税関の次は、国境警備隊が管轄する出国ゲートである。長らくパスポートのページをめくっていた国境係官は入国日とその時の記録提示を求めた、事情を説明すると、上級士官が来て、私は別の部屋に連れて行かれた。
 私は事情説明の上、本庁で面談した数名の名前を言った、一時間後、士官が戻り、私をゲートまで連れて行き、係官に“通せ”と命令したのである。
 <よかった> 帰れる!

 エピローグ:
 ゴルバチョフ大統領がライサ夫人に“みんな、どうしたの、何故だれもいないの?”、
 ライサ夫人“みんな出て行って、残ったのは(ソ連に)あなたと私だけよ”。
 結局は、ロシアと同じスラブ民族である共和国までも急いで分離独立した為に、国境地帯は大混乱となった、その中で入出国法を厳守しようとしても、所詮無理な話ですね。
 その状況を利己的に利用したのが今のロシア財閥である。
 歴史が見守っている、お手並み拝見です。




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