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今は昔
                           ちんすこう
     



 第4話 裸のオーナー様物語


 <国家として戦争よりも怖いのは改革と称した急激な変化である>と聞いた事があります。ペレストロイカ(改革)期間中、重大な出来事は、1991年12月ソ連がペーパー上で崩壊、連邦を構成していた15共和国代表全員が独立宣言に調印したことである。それまで一つの屋根の下で生活していた各国が独立する具体的内容等については、1994―1997年CIS協定として締結されました。(海外資産の分割については、ロシア・ウクライナ間で未だに合意に達していない)
 つまり、その間は、ソ連邦又は独立国家の法律のいずれかを適用した国もあれば、御都合主義で適当に運営した国もあって、大混乱した時代である。
この物語は、その頃の夏、私が黒海に面した、例のソ連初の本格空母建造で有名な、ウクライナ共和国ニコラエフ市に業務で滞在していた時の体験であります。

 ニコラエフ市内には大型造船所が3箇所あった、レーガン大統領とゴルバチョフ大統領が会談したことで有名なミサイル巡洋艦“スラバ号”(その後、改名されて現在の“モスクワ号”)もそこで建造された。
 造船所関係者に何度も乗船を誘われたが、「あらぬ嫌疑を掛けられないためにも」、私は空母にも巡洋艦にも乗船した事はなかった。因みに当時の市長が現在ウクライナ国家安全保障会議の書記である。私は数年前からギリシャ、ノルウェー、その他の船主に頼まれて、そこに出入りしていた。彼らが発注した冷凍運搬船、タンカー船、貨物船向けの設備納入が主務でありました。

 この地域、ソ連時代は通行が厳しく制限されていた模様で一般ホテルがない、地元企業が所有している宿泊施設(日本で言う寮)に泊まるのであった。ところが、あの時は造船所の施設にも空きがなく、アルミ精錬所の施設に泊まっていた。
 私は不勉強で知らなかったが、この精錬所はソ連でトップ2の規模で、既に米国系スイス会社に売られていた。気温は連日40度Cを超え、我々はよそ者扱いで従業員の待遇は冷たかった、たしかに理解できる、我々が泊まる事によって従業員の仕事は増えるけれども、収入は変わらないのだから。
 最初のころはフロントに相当額のチップを渡していたが、他の従業員に渡らない為にかえって意地悪された。従業員名簿をもらい一人一人にチップを配るわけにもいかず我慢していた。
 頻繁に断水する、トイレにも困った、食堂もないので毎日外のレストラン通いだが、残業した日は予約がとれずに部屋でパンをかじってしのいだ。風呂は勿論なし、シャワーは現場で、休みの日は川で、汗を洗い流す生活であった。数日で着ているシャツは肩から背中にかけて白くなる、塩を噴くのだ。

 ホテルの前には生ビールを立ち飲みする売店があったが、ここ一ヶ月、我々は営業しているのを見たことがない、ここにもソ連の名残はしっかりと生きていた。
 ところが、ある暑い日、仕事を早めに切り上げてホテルに帰ると、売店前に長い列が出来ていて、立ち飲みしているお客が見えたのである、それまで意気消沈していた我々10名全員は内心バンザイと叫んだ。
 あの瞬間の喜び様は今も頭にこびりついている(世の女性諸君、見よ、男性はいかに単純であるかを!)。手荷物を部屋に運ぶ者以外は、さっそく列に並んだ。順番が来て窓口から中をのぞくと、ビールの容器はジョッキではなく500cc程度のガラスの空缶であった、取っ手はない。中身が肝心と文句を言う者なし、ところが、一口飲み込んで顔を見合わせた、これはビールの匂がする水であった、しかもひどい薄めよう。
 だれかがウォーブラ(天日干した大型のフナに似た魚)を買ってきた、石のように硬くてさばけない、魚でテーブルをたたいたが一向に柔らかくならなかった。しばらくして、見かねた店員が大きな登山ナイフを持ってきたので、丁重にお礼を言った。
 久しぶりの干し魚独特の匂いと味に酔いしれて、ビールのおかわりをしたくなった。
追加注文すると、今度は店の奥からジョッキを取り出し、そこに10杯分ビールを注いでくれた、これには皆でビックリした。事情を聞くとジョッキは盗まれるから最初から出さないと言う。それには一瞬驚いたが、思い出すとソ連では機械据付工事に行くと、現場でいつももめるのが工具、盗まれるとの理由で出してくれない、これには泣かされた。全く同じ理屈であった。
 ところで、日本語は分かる由もない店員が我々の会話を聞き込んで、ビールがまずいのは空き缶で飲ませたせいだと勘違いをしたとすれば、大切な護身用の登山ナイフを貸してくれたのは、まぎれもなく信用にほかならない。日本人は絶大な信用がある、故に海外では民族を代表しているつもりで振舞うべし。

 あれから数日後の休日、私は宿泊施設の受付に居た、クーラーも扇風機もなく、相変わらず暑い昼ごろであった。そこに精錬所を所有しているオーナー会社の米国人が4名到着した、施設側の愛想はファースト・クラス並みであった。チェックイン手続きが終了して彼らは二階の階段をあがって行った。
 しばらくして、かん高い女性の大声が聞こえたのとほぼ同時に、階段からバケツと掃除のおばさんが転がり落ちてきたのである、顔を真っ赤にして相当興奮していた、「オイ、ウージャス、カコイ、ウージャス!」(何たるちあ!)
 その一点張りで、何が起きたかは理解できなかった。
 仕方がなく、私は階段を駆け上った、そこには先のオーナー会社の米国人が4名、廊下の壁際に素っ裸で並んでいた、前は洗面器でかくして。

                        = 終 =

エピローグ

 裸のオーナーの皆さんが、その後、どうしたかは分かりません、ソ連時代であれば「国家侮辱罪」で重罪です。最大限抗議の気持ちをこのように表現できる民族性をうらやましく思いました。
 



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