「ふるさとはどこですか」
(第102話)
テレサテンの初期の歌に「ふるさとはどこですか」というのがある。
ふるさとはどこですかとあなたは聞いた
この町の生まれですとわたしは答えた
曲の出だしのフレーズである。
彼女の追悼記念誌にこの歌のキャンペーンのスナップがある。
多分東北の冬なのだろう、花柄のちゃんちゃんこを着てカンジキを履いた彼女が、老婆と並んで笑っている。
東北の農村が一番ふるさとのイメージにぴったりくるのであろう。70年代、「ああ上野駅」は誰でも歌え、「北国の春」は街中で流れていた。
一度接待のカラオケで私が「ああ上野駅」を歌って、東北の出身ですか、と聞かれたことがある。いえ横浜です、と答えたときの気まずさが今も忘れられない。
なんだか他人のふるさとに土足で入ったようで、「ああ上野駅」は好きな歌だが、人の前で歌うものではないと思った。
私は横浜生まれの横浜育ちである。
幼いころの家族旅行で、旅館の仲居さんにどちらからですかと聞かれ、母が横浜ですと答え、ああいいところですね、と仲居さんが返した。それに類した記憶が何度かあって、横浜はいいところなんだと子供心に植えつけられた。
当時は裕次郎や小林旭の日活映画のイメージだろう、そのうち「ブルーライトヨコハマ」で横浜のイメージが定着した。
大学に入って初めて「ふるさと」のある友人を持った。
彼らの生家やふるさとを訪れるのが好きだった。東京の生活とまったく違う生活が別にあるということに、青臭い羨望があった。
Aの生家を訪れたのは私の就職一年目、Aはロシア語学科を中退して歯学部の学生だった。
道楽息子を浪人のあと、ふたつの大学に通わせてくれた彼の生家は立派な門構えだった。ご両親は道楽息子の悪友も歓待してくれた。
Kの生家を最初に訪れたのはいつだったろう。阿賀野川沿いの彼の町は、新潟市に組み込まれてはいるものの、昔は独立した村だったことは明らかだった。
彼の両親は写真館と美容室を営んでおられた。複雑な造りの家の二回に、二室を占有して全面本棚に囲まれた彼の部屋があった。飲んでそのまま寝るには十分なスペースだった。
AもKもふるさとの女性と結婚し、今ふるさとに住んでいる。幸せな連中である。
前の会社のロシア部隊の大ボスは長野の寒村で生まれた。
村の中学から高校に進学したのは学年で数名、大学まで進んだのは彼一人だったそうである。
一度呑んでる席でふるさとの話になったとき、引退したら帰りたいですかという質問に、暮らせるところではないから、とおっしゃっていた。
彼は鎌倉に住んでいるが、鎌倉の暖かい海風に馴れてしまえば、長野の山村の凍てつく冬はもうムリなのだろう。
母は、祖父とふたりでたった一度祖父のふるさとに行った旅の話を、
何度かしてくれた。祖父のふるさとは豊後竹田である。
母はまだ女学生で、疎開先の長野を除いて、始めての長旅だった。
祖父は、曽祖父の放蕩と義母との折り合いの悪さから、早くにふるさとを出て、まず臼杵で働き、横浜にでて成功した。
何度祖父がふるさとに帰ったかは知らない。あるいはその旅が出奔後初めてだったのかもしれない。
長男を早くに亡くし、長女の母にふるさとを見せたくてつれてきたのだろう。
もうひとつの目的は、郷里の菩提寺での広瀬家の永代供養だった。横浜に墓を造り、曽祖父から横浜の墓に入っている。
祖父と母のたった一度のふるさとへの旅は、ふるさととの決別の旅だった、
ロシア人とつきあうようになって、もっと過酷にふるさとと引き裂かれた個人史をたくさん知ることになる。
私は横浜で生まれ、今も横浜に住んでいる。幸せなことである。
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