ハマっ子ノスタルジー

           

『横浜山手通り』
(第19話)
                             広瀬裕敏

  そもそも横浜は丘の町である。おもに二つの丘が港から走っている。ひとつは掃部山から野毛山動物園、お寺が集まる久保山に連なる丘陵である。そしてもうひとつの丘は「山手」と称する。
 ふたつの丘の間に、並行して鎌倉街道があり、伊勢佐木町通りがある。山手の丘の一番海よりの眼下に元町があり、隣接してドヤ街寿町がある。
 横浜開港時、関内に住んでいた外国人は、高燥を求めて山手に移り住んでいった。山手の住人は今でも外国人が多い。
 私の家は、山手の丘陵が港から続いて突然切れる崖から、歩いて5分程度のところにある。
 元町から山手を通って、拙宅にいたる道をご案内したい。
 元町商店街の海側の入り口を左手に登ると、登りきったところに「港の見える丘公園」がある。
 かっては山下公園から大桟橋まで一望できたのだが、近年は倉庫やビルに邪魔されて見る影も無い。一方ベイブリッジは余りに近すぎて視線を上げなければならない。かつてのデートスポットも形無しである。
 高校を卒業後、同期の宴会を30年以上中華街でおこなっているが、卒業したての頃は、宴会のあと酒をさましがてら丘公園(そう略称していた)まで歩き、よくアベックをひやかしていた。
 丘公園を左手に見て右折すると、すぐ右側に山手の外人墓地がある。外人墓地の先の道を降りていくと、わが母校元町幼稚園に着く。
 続けて右手にフエリス女学院の清楚な校舎が連なる。左手の道を少し降りると、横浜双葉がある。つまり山手は、高級住宅地であると同時に、共立、横浜女学院を含めて、女子校のメッカなのである。
 やがて左手に山手カトリック教会が見えてくる。
 さらに通りをしばらく行くと、やがて下り坂になり、山元町の商店街でいったん下町に組み込まれる。
 再び上り坂になった先は根岸台である。
 根岸競馬場跡の手前を左に折れて下ると、荒井由美の歌にでてくるレストラン「ドルフィン」がある。もっとも今ドルフィンから見えるのは,埋立地の石油タンクのみである。
 競馬場跡を過ぎると、米軍キャンプの入り口につきあたる。
 米軍キャンプは治外法権である。入り口には日本人立ち入り禁止のたて看板が、英語と日本語で書かれている。車を運転するようになって、始めはおそるおそる、そのうちに平気で通り抜けるようになった。
 キャンプの中は別世界であった。広い道と一面の芝生、塀もない平屋の住宅群。映画のセットのように、アメリカの郊外の風景をそのまま再現していた。
 一度MPの門番にどこに行くんだ、と止められたことがあった。東京の彼女に見せたくて、というと、彼はにっこり笑って、行けと合図した。
 夜キャンプをぬけると、下町の街の灯りが突然眼下に見えてくる。高いビルもあまりない下町の夜景は、オレンジがかった白いじゅうたんのように見える。
 「百万ドルとはいえないけど、百ドルくらいの価値はあるわね。」
武蔵野台地の平坦な町に住む女の子(大学の先輩なのだが)は言った。
 わが町の夜景は、少なくとも1万円以上の価値はあるのである。
 子供の頃、「山手」にあこがれ、住みたいと思った。今は、オレンジ色の街の灯りに包まれるような、横浜の下町に深く愛着を感じている。

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