ハマっ子ノスタルジー

       
『東横線』
(第24話)
                             広瀬裕敏
 
 東京と横浜は三つの道路でつながっている。
 一番海側を通るのが第一京浜の国道15号線。旧東海道とほぼ同じである。フランク永井の「夜霧の第二国道」の国道1号線。「ニコク」と呼んだ。環八から三ツ沢にいたる高速道路は「第三京浜」という。
 三つの道は東京の起点は違うが、横浜ではだいたい横浜駅周辺に集結する。浜っ子は車で東京に行く場合、その目的地によって道を選ぶわけである。
 同じように鉄道も三つある。海側から京浜急行、国鉄の京浜東北線(東海道線、横須賀線も並行して走っている)、そして東横線である。
 三つのうち、京浜東北線、東横線の終点は桜木町だった。
 閑話休題。
 小学校六年生のとき、毎日曜日東京の「日本進学教室」に通っていた。当時首都圏でもっともステータスの高い中学受験予備校だった。朝8時から毎回模擬試験を受け、その試験の解説の授業があって、昼頃に終わるというスケジュールだった。
 次の週に前回の試験の上位50名程度の順位をプリントして配り、子供の競争心をあおった。
 さらに私の母は小遣いをエサにした。順位表に名前が載ったら二百円くれるというのである。
 ともあれ、一週間に一回の東京行きは楽しいものだった。最初の一回は母親に連れられて行ったが、その後は一人で喜んで通った。父の田舎以外に、横浜から初めて外の世界に出たのである。
 横浜南部の私の小学校からは私一人きりだったが、やがて教室で友達もできた。平塚から通っているKは、同じ中学校に進み、高校のときサッカー部のキャプテンになった。フランキー堺の子息とも知己をえた。エバタアミという女の子に、テレビの「ナポレオンソロ」の原作本を貸しただけでドキドキした。
 妙蓮寺のK小学校からは、公立小学校にもかかわらず十名以上が通っており、いつしかその仲間に加わっていた。そのうち一人は同じ中学校になり今も親友である。ほかの連中とも結局大学浪人の予備校で再会することになる。
 日曜日だけだから、教室は当然借りており、東大駒場が教室だったこともあった。一番好きな教室は原宿の社会事業大学だった。原宿駅から商店街をぬけ、東郷神社の境内をとおって通った。授業のあと、神社の境内で缶蹴りで遊んで、神主に追い出された。
 原宿から渋谷に出て、東横線の急行に乗り、菊名で降りた。K小学校の連中はほとんどが妙蓮寺下車だから、各駅電車に乗り換える必要がある。
 毎日曜日、菊名駅構内の立ち食いそば屋で、てんぷらそばとかけそばを食べた。てんぷらそばは55円、かけそばは40円だった。二百円の小遣いで充分おつりがきた。
 東横線が好きだった。高燥地を走っていたせいもあるのか、いつも車内は陽だまりのように暖かだった。多摩川を渡るとき、川面に陽光が踊った。
 石坂洋二郎の「陽のあたる坂道」を読んだのもその頃である。田園調布に途中下車したのはずっと後になってからだった。
 近年東横線は「みなとみらい線」と接続し、横浜駅の手前から地下にもぐった。そして、私の異郷への窓口だった桜木町は捨てられた。
 
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