放課後は
さくら野貿易
放課後のページ

ハマっ子ノスタルジー

       


       
『大学5年生』
(第52話)

 大学はもちろん4年で出るつもりだった。
 4年生の年の年末、ようやく通信社の2次募集にひっかかり、ロシア語の悪夢にうなされた学生生活から開放される予定だった。
 年が明けた2月に、ロシア語の必修科目5教科中三つを落としていることが判明した。
 親しい教授に泣きつき、彼の口利きで何とか2教科は通してもらった。もう1教科の担当講師が首を立てに振らなかった。
 サハリン生まれのその講師は、高校生のときに帰国し、日本人でありながら日本語で苦労した人だった。私の語学学習に対する不真面目な姿勢が心底許せなかったのだろう。
 その講師とは後年サハリン行きの空港で何度か会った。あいさつはするものの当時のいきさつを笑って話す機会がないまま、彼は現役のまま早世した。
 そのうち一般教養も1単位足りないことが判明し、4年で卒業することを断念した。
 新年度が始まり、「広瀬さん、グレてるだろうから気晴らしに」と、サッカーの後輩に、真田堀の土手で花見を誘われた。
 上級生になった後輩は、下級生に人間インベーダーをやらせた。インベダーゲームが大ヒットしている時代だった。列をなして横に動く下級生たちにモノを投げて倒せという。失意の私に対する彼なりの最大限の接待だった。
 もっとも下級生たちにとってはいい迷惑だった。いまだに忘年会で当時の下級生たちは、あれは恥しかったという。もちろん当たって痛いものは投げられないのだが、この時ならぬ出し物に人垣ができた。
 一般教養の単位取得を親しい神父さんに頼んだあと、ロシア語の授業に行くと、教授陣は「広瀬君、今年は単位あげるから」と請け負った。それなら去年くれ、という恨み言を飲み込んで、ありがたく配慮を受けた。
 こうして最後のモラトリアムの一年が始まった。
 元サヨクの神学生は私の留年を喜んだ。彼と組んでやった活動を通じて元ベ平連の幹部とつきあったことがある。
 「広瀬さん、まだ大学に残っているの」
 「ええ、まあ」
 「大学に残ってそんなに面白いかなあ」
 彼はおそらく私が大学の修士か博士課程と思ったのだろう。意に反して5年生ですとは恥しくて言えなかった。
 さすがに小遣いくらいはアルバイトでまかなおうと、塾の講師を始めた。塾は渋谷の松涛にあった。松涛といっても、塾の立地は高級住宅地の中ではなく、道をはさんだ向かいにラブホテルがあった。
 小学6年生の国語を仰せつかったのだが、与えられた教科書の後ろには設問の解答があり、生徒に質問しても、当然のごとく正答率は百パーセントだった。
 学習意欲は低く、男子生徒は授業中ずっとラブホテルの入り口をチェックしていた。一年間でボロボロになるほど教科書で悪童たちをひっぱたくのだが、それほどコワい学生ではないと見透かされなめられきっていた。
 一方中学3年生の国語の夏期講習を受け持ったときは、中学生の意欲に瞠目した。高校受験という最初の関門を前にした真面目さが美しかった。
 講師仲間に慶応文学部の院生がいて、何度か渋谷センター街の近くで飲んだ。
 彼は中上健二に傾倒していた。線の細い学級肌の彼が、力技の小説家中上に心酔するのは、逆に判る気がした。
 そもそもATG系の邦画の名作はほとんどが中上の原作だった。さらに数年前から中上は、満を持して「枯木灘」など自分の血を語る大作を上梓していた。
 私も、彼には言わなかったが、中上健二に引導を渡された気になっていた。筆力もさることながら、彼の作品の素材の迫力だった。自分に書くものがないことを見せつけられた思いだった。
 さすがに長い、ふわふわした甘いモラトリアム生活はもう充分だった。実社会に出たいと思った。

【掲載作品一覧】