放課後は
さくら野貿易
放課後のページ

ハマっ子ノスタルジー

       
   

       
 『初代テレビっ子(3)ホームドラマ』
 (第59話)

 高校生になってもテレビっ子であることに変わりなかった。
 特にこの時代ホームドラマの全盛期だった。回想におつきあいただきたい。
 1970年。この年視聴率50%の「ありがとう」は観なかった。高校生の悪童たちがひいきにしたのは、石立鉄男、岡崎友紀の「おくさまは18歳」、久世光彦演出の「時間ですよ」だった。銭湯を舞台にして、物干し台で歌うアイドル天地真理、はずすのが心配な浅田美代子のほかに、女湯のサービスも毎回あった。
 1972年。「木枯らし紋次郎」。斬られ役が自ら斬られに来るような従来の殺陣でなく、泥臭くもみあうような立ち回りがリアルだった。
 「必殺仕掛人」、そして「太陽にほえろ」。ショーケンが役者になった。
 「パパと呼ばないで」。石立鉄男、杉田かおるコンビの第1作である。石立鉄男はごひいきの役者だった。
 1973年。「必殺仕置人」「子連れ狼」。山田太一の「それぞれの秋」は見逃した。

 1974年。「傷だらけの天使」は鮮烈だった。オープニングはショーケンの食事シーンである。魚肉ソーセージのフィルムを口で噛み切ってかじりつき、牛乳瓶のフタも口であけた。マネして牛乳をまき散らした。
 「寺内貫太郎一家」。この作品からライター向田邦子の名を認知した。
 ごひいき石立鉄男の「水もれ甲介」もこの年である。
 1975年。「前略おふくろさま」。深川の料亭を舞台にした人情話。三番板前のショーケンと火消しの親分の娘で仲居の坂口良子の恋のドタバタを軸に、桃井かおりや東映悪役の「ピラニヤ軍団」室田日出男、川谷拓三らが脇を固めていた。東京の下町に初めて触れた。
 脚本は倉本聡で、この頃からシナリオライターで観るドラマを選ぶようになる。
 「俺たちの旅」は中村雅俊のくさい青春ドラマだったが、ついつい見てしまった。
 1976年。山田太一の「男たちの旅路」。鶴田浩二がガードマン役で、若い同僚の水谷豊とぶつかりあう話。戦中派が現役でまだ職場に居た。
 1977年。同じく山田太一の「岸辺のアルバム」、向田邦子の「冬の運動会」。
 向田邦子の感性が好きだった。唐十郎の状況劇場で主役をはっていた根津甚八が、内向的青年の役を好演した。ロシア語学科の友人の影響で、状況劇場の赤テントにはよく通った。甚八が抜けたあと、小林薫が主役に昇格したころだった。
 1978年。市川森一脚本の大河ドラマ「黄金の日々」、大岡昇平原作、早坂暁脚本の「事件」。厚木が舞台だった。大竹しのぶがラストで大きくなった腹をかかえて相模川の橋を歩いて渡るシーンが印象的だった。
 1979年。松田雄作の「探偵物語」、向田作品「阿修羅のごとく」。
 1980年。菅原文太主演の大河ドラマ「獅子の時代」、向田の「あ・うん」、西田敏行主演の「池中玄太80キロ」、和田勉演出の「ザ商社」。
 「あ・うん」は映画よりテレビのほうがよかった。主役の3人が映画では、坂東英治、高倉健、富司純子だが、テレビはフランキー堺、杉浦直樹、吉村実子だった。父親役のフランキー堺が絶品だった。
 向田邦子の没後、名作「父の詫び状」を原作として、ジェームズ三木脚本、深町幸男演出でドラマ化された。そのときの両親の役は杉浦直樹、吉村実子だった。
 「ザ商社」で夏目雅子が女優開眼した。この年私は会社勤めを始めたが、直属の上司3人が安宅産業出身だった。
 向田邦子の資料を読んでいて、「パパと呼ばないで」の全41回のうち14回彼女が執筆していることがわかった。ほかに彼女の作品で観たのは、「せい子宙太郎」「幸福」「蛇蝎のごとく」など。羽田の町工場を舞台にした「幸福」は絶品だった。
 向田邦子の小説エッセイについてはまた書きたいと思っている。
 80年代になってようやく働き始めて、連続ドラマを観る機会も減った。
 90年代になってウラジオストクに住んでいた3年半、後輩が何回か「トレンデイドラマ」のビデオを届けてくれた。「101回目のプロポーズ」は一晩で観た。
【掲載作品一覧】