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さくら野貿易
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ハマっ子ノスタルジー

       
     


手紙、まだかなあ。。。

       
 『通信手段』
 (第61話)

 近年通信手段が劇的に進歩したという事実に誰も異論はあるまい。
 携帯電話やメールの利便性を享受しつつ、仕事では返答に追われ、プライベートでも「待つこと」によるドラマが生まれない無味乾燥にため息するのは、歳をとったせいだろうか。
 ものごころついたときから、さすがに家に黒電話はあった。もうすでに市外電話も直通回線だったはずである。
 したがって電報も、大人になってからの祝電弔電以外打ったためしがない。
 大学時代、地方出身の友人の安アパートにはほとんど電話が無く、麻雀をやっている最中に電報が届くのを物珍しく観察した。内容は「たまには電話しろ」といったたわいの無いものだった。
 話は前後するが、ソ連貿易を始めて、電話交換手に申し込むシステムを初めて知った。モスクワから東京にかけるのも数時間待たされた。
 誰かが、モスクワからウクライナ国境のベルゴロドに電話したとき、交換手が日本人の発音がわからなかったらしく、ユーゴのベオグラードにつながれてしまったと嘆いていた。とにかく早くつないでもらおうと、定宿のオペレーターに愛想をふりまいた。
 当時ソ連の地方都市に行ったら、緊急でない本社への連絡は電報だった。前述のベルゴロドから初めて電報を打ったとき、要領がわからず、電報局の窓口でおばさんに怒られながら書いた。
 ナホトカに出張したとき、相手の公団はわれわれと成約するつもりは無いらしく、一週間の滞在期間中毎日会ってはくれるものの、面談時間は15分程度だった。本社への「本日も進展なし」という一文を電報局で依頼するのに一時間かかった。
 外地との通常の連絡はテレックスだった。用紙にタイプしてテレックス室に持ち込んだ。できるだけ字数を節約するようにと、テレックスの文面には独特の言い回しがあった。「頼む」はTAMUになり、アズスーンアズポッシブルはASAPになった。言い回しを一通り覚えて、貿易マンの端くれになった気になった。
 ベルゴロドで知り合った看護婦さんの手紙は、消印の日付から届くのに一ヶ月かかっていた。
 つまり80年代のソ連で、私は私が生まれる前の通信事情を体験することになった。

 また大学時代に話は戻る。
 携帯電話もメールも無い時代、待ち合わせはどうしていたか。とにかく事前の約束は守っていた。待たせる時間も数十分は容認された。駅での待ち合わせで、待ちきれない場合は、掲示板にチョークで行き先を書いた。
 何も事前の約束の無い場合、大学のメインストリートの真ん中でひたすら知り合いが通るのを待っていた。麻雀の4人目が余りに見つからない場合、あたりをつけて授業中の教室に直接呼びに行くという強硬手段をとった。
 あるサークルの二年先輩は、フランス語の単位だけを落としてそのまま広告代理店に就職し、その会社の好意で一週間に一日フランス語の履修に大学に来ていた。ところが彼は授業にも出ず、サークルの部室でひたすら私が来るのを待っていた。私が顔を出すと、一緒に従業員食堂に行ってビールを飲んだ。これが二年続き、さすがに二年目は私も授業に出るようアドバイスしたが、結局単位を取らずに終わった。彼はその会社で役員になったから、別に資格など始めから問題なかったのだが、あの当時携帯電話があったなら、ひたすら待つ必要もなく、授業にも出れて、大卒でいられたはずである。
 これらは悪友間の話で、女友達はこうもいかない。
 たまに家に電話すると、「九時以降は取り次ぎしないことにしています」とご尊父に拒否されたりした。やもえず十時ジャストに電話するから電話機の前に居てくれという話になる。電話ではかえって話しづらく、結局次に会う日時を約束するだけである。
 「チルソクの夏」という映画がある。「チルソク」は韓国語で七夕のことで、プサンの高校生と下関の女子高生の淡い交流が描かれていた。70年代、七夕の季節に下関プサンの陸上競技大会が交互に行われ、そこで出会い、次の年の大会で再会する。宣伝文句にはこうあった。「日本の歌が禁止されている時代、メールも携帯も無い時代、二人は恋した」
 「待つ」ということが美しく、豊かに感じられる時代だった。
 
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