放課後は
さくら野貿易
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ハマっ子ノスタルジー

       

ハイライトは永遠に不滅ナリ
       
 「煙草の思い出」
 (第86話)

 煙草は大人の象徴だった。
 ものごころついたとき、父は「スリーエー」という銘柄をすっていた。まだ「いこい」が全盛のときで、ちょっとモダンな香りがした。
 父に小銭を渡されて、「浜の日本橋」の中にある煙草屋におつかいに行くのが好きだった。
 居間で父の煙草の煙を吸いながらテレビを観ていた。
 住居の下の工場のボイラーのそばで、休憩中の工員さんたちが煙草を燻らす輪の中に私は居た。
 「やっちゃんが工場を継ぐの?」
 私はやっちゃんと呼ばれていた。工員さんたちと普段話したこともないのに、煙草が会話の手助けをすることを、幼いときにすでに悟った。
 ボイラーのふたを開けて、吸殻を投げ込む一連の動作がかっこいいと思った。
 高校も二年になると、煙草を覚えた友人も増えてきた。
 休み時間に体育館の裏に吸いに行く友人もいたが、私は学校や登下校の途中で吸うことはなかった。煙草程度で停学のリスクを負うことはないという、醒めた部分もあったし、まだニコチン中毒には至ってなかったのである。
 高二の夏、鹿児島市内のユースホステルの一室のことである。
 高校生ではバカにされるだろうと、一人旅の間ずっと大学生で通していた。寝る段になって数人の同室者の一人が、蚊がうるさいから皆で煙草を吸って追い出そうと提案してきた。
 煙草を持っていないから、と断る私にも数本の煙草が手渡され、いっせいに火をつけた。
 こうして私も煙草を覚えてしまった。
 浪人時代、毎朝御茶ノ水の地下の喫茶店にいた。
 予備校に通いだした春、友人に連れられてその喫茶店に行くと、数人の予備校生がたむろしていた。友人によれば、彼のK小学校時代の友人と、それに連なる中学高校の同級生だという。つまり中学受験をして、麻布、開成、教駒などに散った連中が、また一堂に会したのである。小学6年のときの見覚えある顔がいくつもあった。
 10時までのモーニングサービスは80円だった。浪人生にも耐えられる値段で、類が類を呼び、二十人を超えて、朝のその喫茶店を占拠するようになった。雀荘があくまでコーヒー一杯で粘るのである。ついには喫茶店のマスターに出入り禁止を言い渡された。
 その後二軒ばかり溜まり場の喫茶店は代わっただろうか。二十人のほぼ全員がハイライトを燻らし、大声でその日の遊びの計画をたてるのである。追い出したくなる店の気持ちはよくわかった。
 横浜野毛のジャズ喫茶「ちぐさ」。
 横浜の老舗である。老人の店主が「私語」に目を光らせていた。ほとんどが一人の客。二人連れでも会話はほとんどない。水もでない。ジャズとコーヒーと紫煙だけの瞑想の世界。
 そして80年代のオフィスの喧騒と紫煙。
 出社初日、おそるおそる自分の席で吸った一服。
 やがて慣れてきて、ネクタイをゆるめ受話器を肩で支えて、お客さんと話しながら煙草を燻らす一丁前のポーズ。もっともなで肩の私は、受話器を肩で支えるのに苦労していた。
 煙草をつけたまま灰皿に置いて、自分の机の下で何か作業をしていたときのことである。
 向かいの嘱託のYさんの声が聞こえた。
「あのガキは、また煙草つけたままどこか行きおって。あんなのやめとき」
 河内弁のご老人である。どうやら私の隣のTさんに話しているみたいだった。やめとき、というのは多分結婚対象にするな、という意味なのだろう。
 顔を出す前に手をのばして灰皿の煙草を消した。Tさんは笑っていた。まだ煙草に寛容な時代だった。

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