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ハマっ子ノスタルジー

       
        

     
 「美空ひばり」
 (第88話)

 横浜に偉人はいない。
 神奈川県に範囲を広げても、なかなか万人が同意する偉人を見つけるのは難しい。
 これは横浜の歴史の浅さ、さらに東京に近く国際港であるがゆえに、流行や世情に敏感で、いわば「軽佻浮薄」な市民性、県民性による。
 もちろん神奈川県は古都鎌倉を有しているが、鎌倉武士の概念は関東全般にあり、頼朝は京生まれだし、北条は伊豆の二流一族で、なんとなく郷土の誇りにはなりえない。
 寒川町の田舎道を走らせていて、梶原景時住居跡というのを発見したが、その名前知ってる、という程度である。
 小学校の校庭にたまに残っていた銅像の、二宮金次郎は小田原の篤農だが、私が小学生のころはもう、「車が危ないからマンガを読みながら道を歩いてはいけません」と教えられた。
 少年サンデー、マガジンの発売日に本屋に飛んでいって、待ちきれず家への道すがらページをめくるのである。
 話がそれた。
 結局横浜の偉人は「美空ひばり」、まで待たなければならない。
 美空ひばりが「滝頭」という市電で4っつ先の町で生まれ、磯子の「ひばり御殿」の脇を通って通学したことは前に書いた。
 母はひばりより二つ年上である。あまり芸能人に関心があるわけでもない母の口から、ひばりのことが何度かでていたのを記憶している。
 それは近くのサカナ屋の娘の出世譚というだけでなく、なんだか母の戦後焼け跡の娘時代の同士を語るような口ぶりだった。
 ひばりの履歴を見てみると、46年横浜磯子のアテネ座で初舞台、47年杉田劇場出演とある。(杉田は磯子区の南部で,杉田劇場は最近復活して、先輩に誘われて何度か行った)さらに48年横浜国際劇場と専属契約を結ぶ、とある。(その跡地に今ひばりの小さい銅像がたっている)
 まさにひばりは母や岸恵子が語った、横浜大空襲のあとの焼け跡で歌っていたのである。
 「東京キッド」のシューシャインボーイは昭和30年代の半ばまで伊勢佐木町でみかけた記憶がある。
 私がオンタイムで美空ひばりを認識したのは、64年テレビ番組「柔」の主題歌を歌ったときである。この番組を楽しみに毎週観て、いつしかひばりの声色、節回しをお覚えてしまった。
 「悲しい酒」「真っ赤な太陽」を最後にひばりは過去の人になる。
 山口組とのつきあいや弟のスキャンダルでひばりは叩かれ、かたくなに殻にとじこもっているように思えた。
 ひばりが若い世代にも再評価されたのは、彼女の最晩年である。それは私の楽しいサラリーマン時代で、カラオケのあるクラブに行って年配のママさんに歌を所望すると、歌われるのはひばりの歌だった。何度かあった。
「ひばりが好きなんですか」
「やはりひばりが一番」
彼女たちも同じように昭和を歩いたのだろう。
 そこで私はひばりの生誕地の近くに住んでいることを自慢する。そのときやっとわかったのだ。
 自慢したくなるほどひばりは横浜の偉人なのである。

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