ハマっ子ノスタルジー

『元町幼稚園』
(第9話)
                              広瀬裕敏

 私の学歴で誇れるのは、元町幼稚園に通っていたことである。
 元町商店街から上って山の手の外人墓地の脇にでる、潮汲み坂の中ほどにあった。
 横浜学院というカトリック系の女子校の付属幼稚園だった。高校は戦後南区に移転したが、戦前まだ横浜女学校といった時代、中島敦が国語教師として勤務し、同じようにこの坂を通っていたという。
 元町とか中華街(当時は南京街といった)の子女が通っていた。カバンのキタムラのご子息も同級生だと聞いたが記憶には無い。
 自宅から元町まで車で10分の距離である。下町のコーラ屋の息子がかくも遠くの幼稚園に通ったのは、親バカの極みか見栄のせいだろう。近所の煎餅屋の娘さんも和同い年で、双方の親が交代で車で送り迎えしていた。
 車で正門まで乗り付けて、なおかつ女の子といつも一緒なのが恥しく、車が坂を上り始めると、後ろの席で深々と座って外から見られないようにした。煎餅屋の娘さんは何をしているのだろうという顔で私を見て、ちょこんと座っていた。
 多分親日家の両親が決めたのだろう、米軍キャンプの中にも幼稚園はあっただろうに、白人の男の子が何回か編入してきた。
 日本語のできない、背の高い男の子は、当然のごとくイジメの対象になった。何度か運動場で、園児たちが男の子を囲んではやしたて、一方男の子は怒って英語で罵倒して、日本人の園児たちを蹴ろうとしてる光景が眼に浮かぶ。はやしたてた園児の中には、日本で成功した中国人の子女も含まれていただろう。
 運動場で「お遊戯」のとき、アメリカ人の男の子はひとりでジャングルジムの上に寝っころがって我々を見ていた。そしてどの男の子も一週間ともたずにいなくなった。
 あのときシスターの先生たちはなぜイジメを止めなかったのだうか。親日家で、おそらく信仰深い男の子たちの両親の失望が今だからわかる。男の子たちが、日本嫌いにならずに成長したことを望んでいる。

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