放課後は
さくら野貿易
放課後のページ

ハマっ子ノスタルジー

       
      

     
 「若い苦悩の時代」
 (第94話)

 思えば能天気で非力な半生だった。
 祖父が田舎から横浜に出てある程度成功し、二代目の父が維持して、三代目ですべてに無頓着な「浜っ子」を体現してしまったのである。
 家庭に不幸は無かった。わずかに母の弟の早世があったそうだが、それも私が生まれるはるか昔、一族史の話である。
 ただそれもあったのか、真綿でくるまれるように育てられた。危ないからと自転車に乗るのさえ禁止された。
 過去に戦争という大きな不幸があったのは物心ついてすぐ聞かされたが、それも私にとって歴史の中の話であった。驚くべきことに父方母方の親族とも戦死者がまったく居なかった。
 父は一年違いで徴兵を逃れたし、母は横浜大空襲さえ被災しなかった。
 祖父の炭酸飲料工場跡地(これは焼け野原)になった)は戦後すぐ米軍に接収されたが、祖父はめげることなくほかの場所で生産を再開した。
 私はその新しい工場の二階で生まれた。
 思えば小学校6年生のときが人生の頂点だった。中学受験の予備校が楽しくて仕方がなかった。単にペーパーテストができるという鼻持ちならないガキだった。
 「あなたは幸せなのよ。世間では親がいなくて苦労している子供がたくさんいるんだから」
母は口ではそういっても、私がいい成績をとれば満足し、世間にふれさせようとしなかった。
 中学にすすんで、慢性的な学業成績の低下と、ガールフレンドがいないという、くだらない私的な悩みをもつようになる。単なる努力の欠如である。
 ただそうしたくだらない悩みは、自己弁護的ながら普遍的悩みに発展するものである。
 「そもそも人生は何の意味があるのか」
「この時代に、この環境で生まれた自分は何をすべきなのか」
中学時代の悩みは堂々巡りだった。
 やがて解決策として、その中学の母体のカトリックに関心をもち、中学3年の冬に受洗した。さしたる理解も硬い信仰もなく、小学校時代得意だったペーパーテストのように、早く回答を求めたのである。
 70年の冬だった。すでに大学紛争は内ゲバの混迷に入っていた。
 通い始めた伊勢佐木町の裏の所属教会のミサのあとで、神父さんが今後のミサの時間を告げたら、聖堂の二階から若い信者が大声で反論した。何で民主的に決めないのかと。神父さんは思わぬ反応に絶句し、中学3年の私はただ驚いていた。
 ドイツ的規律を重んじる中学ではありえない事態だった。
 高校に入って、隣の山手教会の高校生の集まりに顔をだすようになった。
 そこで二歳年上の横浜双葉の女子生徒に眼を開かされた。初めての憧憬の対象だった。清楚なお嬢さんから淡々と語られる話に15歳の私は感動していた。
 山手の丘のすぐ下の寿町のこと。元町の脇の掘割の船上生活者のこと。在日韓国朝鮮人のこと。部落のこと。今起きている戦争のこと。
 恥ずかしながら、眼をそむける以前に知らないことが多かった。表通りだけの横浜の風景が変わって見えた。
 やがて高校時代は活字の世界に耽溺することになる。
 大学時代以降のささやかな活動はまた次の機会に語りたい。
  
【掲載作品一覧】