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いわし雲
                           鈴木 敬一



 第2話 「短歌と恋」

 

 私は若いころより短歌が好きで、下手ながらも折々に自分でも歌を詠むが、専門誌や現代作家の歌集を買い求めて鑑賞するほどの熱意は持ち合わせていない。しかし、購読している雑誌や新聞の投稿欄に掲載される作品には一通り目を通すことが多い。
 投稿歌の大半は日常の生活断片や花鳥風月や世相、戦争への批判などを対象としており、恋の痛みや決別の情を余韻深く歌い上げたものは著しく少ない。
 相聞(そうもん)や去り行きし者への哀傷は古来、短歌の主要テーマであったはずである。万葉集の四割強は相聞歌が占めているし、古今集は四季の歌と恋歌で二分されている。
 歌は本来、自らの心の叫びを訴える表現手段として生まれたものであり、心の叫びは昔も今も変わることなく人々の胸中に燃え続けていると思うのだが。
 現代の高度に発達した文明社会では、諸々の複雑で錯綜(さくそう)した刺激に終日追い回されて、人間関係そのものに思い入れし沈思する余裕は著しく少なくなってしまったのだろうか。
 歌を仲立ちとして恋が成立した古(いにしえ)の優雅さに代わって、メールによるハート・マークなどのに単刀直入な意志の伝達で済まされるならば今や恋は歌の題材には確かになり難いであろう。
 しかし柿本人麻呂の亡き妻への挽歌や和泉式部の情熱的な恋の想いは、世相がどのように変化しようとも私の心の中にいつまでも生き続けていくであろう。

 秋山のもみじをしげみ 惑ひぬる 妹を求めむ 山道知らずも (柿本人麻呂)

 黒髪の乱れもしらず うち臥せば まづかきやりし 人ぞ恋しき (和泉式部)
 
 (本稿は『水産週報』 2005年11月5日に掲載されたものです)




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