放課後は
さくら野貿易
さくら野貿易 放課後のページ


いわし雲
                           鈴木 敬一



第20話 「マエストロと築地市場

 カルザス以来のチェロの名手といわれ、また指揮者でもあった一人の楽聖がさる四月、天に召された。ムスチスラフ・ロストポーヴィチである。単に音楽家として偉大であっただけでなく、その高潔な人格と人道的な行動は世界の良心として賞賛を浴びている。過日「二十一世紀への証言、M・ロストポーヴィチ、勇気と良心の旋律」という、かつてNHKで放映されたTV番組が、巨匠をしのんで再放送された。私の友人である元NHKモスクワ支局長がインタビューしたもので、マエストロの生い立ち、演奏、陰に陽に支援してくれた友人や市民、ソルジェニーツィンへの庇護、国外追放措置、国籍剥奪など、まさに波瀾万丈の生涯が語られ、感動的な内容であった。率直で核心をついた小林氏の質問に対して巨匠夫妻は、真正面から簡潔に明確に回答し、見解を述べ、その音楽と人生にたいするひたむきな姿勢と心意気が明白に映し出されていた。
 祖国を追放されローマに赴いたマエストロはバチカンで教皇に拝謁し、沢山の問題を抱えている旨、胸中の苦悩を訴えると教皇は「あなたの抱えている問題はただひとつだけ。それは今、神の国に至る階段の中段に立たれているが、これから、この階段を上に昇るか、下に降りるか、その選択だけである」と答えられた。マエストロは、その神の国が、キリスト教であれ、仏教であれ、道は同じだろうと述べている。
 この偉大な楽聖は1948年以来、たびたび日本を訪れているが、その折、何回となく築地市場を訪れたことは、あまり知られていない。小林氏によれば、マエストロは来場の都度、寿司を食されていた由。特にアンキモが大の好物であったとのこと。私は残念ながらこの世紀の音楽家の築地来場を知らず、場合によれば話を交わす機会があったものをと悔やまれてならない。


   (本稿は『水産週報』 2007年7月15日に掲載されたものです)
 


[執筆者紹介]  [ 掲載一覧 ]