放課後は
さくら野貿易
さくら野貿易 放課後のページ
いわし雲
                           鈴木 敬一



 第3話 「ロシア文学断片」

 
 かつて、どんな本屋でもロシアの小説がフランス文学書と肩を並べて書棚を広く占めていたが、今やその面影すらほとんど見当たらない。長い間、ロシア文学を友としてきた私にとっては寂しい限りである。
 日本人は一般的にロシア嫌いが多いと言われているが、この嫌悪感は地政学的要素もあろうし、またソ連時代のイデオロギー的要因も多分に作用しているであろう。しかし、政治的な好みは別にしてもロシアの芸術、文学、音楽は大好きという好露派も実に沢山いる。
 一口にロシア文学といっても個々の作家により思想も作風も文体も大きく違い、ロシア文学の特性は、こういうものだと決め付けることは困難だ。19世紀後半、ロシア文学を世界的に高めた、いわゆる「大小説家時代」が訪れ、ドストエフスキー、トルストイなどによりその頂点を究めた観があるが、しかし私が最も愛し、今なお親しく愛読しているのは、高まいな人生論や社会思想とは直接的に関連性を持たないツルゲーネフの農民小説「猟人日記」であり、また晩年病魔と苦闘しながら筆を執り続けた「散文詩」である。「猟人日記」はたぐいまれな質朴と詩趣に冨み、繊細で敏感な詩人の感覚でロシアの田園風景の美しさを描写しているが、さらに詩人ツルゲーネフの面目を純粋に端的に示しているものは「白鳥の歌」ともいうべき82編の「散文詩」であろう。
 ロシア文学が我々をひきつける大きな要素にロシア人が「グルースチ(哀愁、悲愁)」と呼んでいる民族の特性が挙げられる。単に、文学のみならず、音楽にせよ、絵画にせよ、どこか日本人の心底を揺り動かすような哀感は、あの長く激しい冬の生活と広大な大地に培われた彼らの感性が生みだしたものであろうか。ツルゲーネフのやや厭世的な内面律や叙情性にどことなくそれを感ずる。

 (本稿は『水産週報』 2005年11月25日に掲載されたものです)



[執筆者紹介]  [ 掲載一覧 ]