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第36話「宗教断片…辞世」
日本人は一般的に宗教心が薄いという。……教の信者であると毅然と答えられる日本人は比較的少ない。
正月に初詣をし、春秋の彼岸の墓参を習わいとし、お盆には迎え火、送り火をたく。神道と仏教が混合した形態であるが、このような年中行事を繰り返すことにより生活にアクセントをつけ、心穏やかに生活し平安を手にするのである。
亡くなった先祖が「あの世」にいて、現世の残った家族を見守ってくれる上に、やがていつかは自分自身もそこに参加するのであるから言葉は交わせなくとも、気持ちの接触は折々の機会に保っておきたいという来世を信ずる心がこのような行動の源となっているのではないのだろうか。
この世を立ち去ろうとする者が詠む和歌、発句、漢詩などを「辞世」と呼ぶが、これは目で見える形の現世から来世へ橋渡しする直前の心の表現である。江戸時代には辞世文学がひとつの頂点を迎えている。予め準備された作品もあるが、末期(マツゴ)にとっさに詠んだ作品もあり、内容的には生涯を省みての感慨や残る人たちへの惜別の情が多い。
願はくは 花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月の頃
(西行法師)
露と落ち 露と消えにしわが身かな 難波のことも夢のまた夢
(豊臣秀吉)
風さそふ花よりもなほ 我はまた 春の名残をいかにとやせん
(浅野内匠頭)
このように神社仏閣に詣で、辞世を愛する日本人は、それなりに信心深く、かなり宗教的といえるであろう。
辞世とは別に今際(イマワ)に語った言葉が洋の東西を通して語り継がれている。果してそれだけの体力、知力が残っていたのか、誰がそれを聞きまた伝えたのか、謎はいろいろ残るが魅力的な内容も多い。
「フランス…軍隊…ジョセフィーヌ…」 ナポレオン一世。
「友よ、拍手を!喜劇は終わった」 ベートーベン。
「是非に及ばず」 織田信長。
あなたならどんな辞世を、どんな言葉を残しますか。
(本稿は『日刊食料新聞』 2010年4月23日に掲載されたものです)
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