平成東京物語(その2)

複数のライターが交互に数行ずつ綴る実験的リレー・ストーリー
行き着く先は誰も知らない・・・(舞台裏集音マイク)


 ナホトカに着く日本の小さな運搬船に乗っているバイヤーに最初本物を見せ、バイヤーが確認した後、もう一度贋作と取り替えることを彼らは計画していた。
 バイヤーといっても、受け取りに来ているのは、ダナエを自分だけが鑑賞するために買おうとしている狂人から依頼された画商である。当然しっかりした鑑識眼をもっている。バイヤーもKGBを信用していないから、画商と面識はないにせよバイヤーに雇われた私にすり替えをさせようとしたのである。
 KGBはダナエ一枚で何度も儲けようとしていた。そして結果的にすり替えは成功した。
 私は釈放され、引き裂かれたダナエの贋作を持って横浜に着いた。
 その後画商やバイヤーから反応は無い。おそらく今日まで本物と思い続けているのだろう。
 私は、その遥か後、もう一度本物のダナエとある国で出会うことになた。
 「フィリピンのKGBはいいやつでした。」
 メールを書き続けた。
 (鯨)2005.10.25

 ここまで書いて、彼のことを、ウラジーミル・シェンバリドという長々しい名前のソ連人のことを、自称KGBのバロージャのことを、謀略組織のイメージとは縁遠い笑顔や饒舌を思い浮かべたとき、彼が話したことの多くは忘れてしまっているのに、その中に紛れ込んでいた深刻な会話は今も忘れられない。
 エルミタージュ美術館の「ダナエ」が切り裂かれ、硫酸までかけられた事件は世界を驚かせていたから、マニラでもニュースになっていた。だからバロージャが、祖国で起きたその事件を話題に取り上げたのは、何の他意もない自然の成り行きだったのかもしれない。あるいは隠された意図があったのか、私には判別できなかった。彼がひとりでしゃべり、私は内心身構えて、ずっと黙っていた。
 (蛸)2005.10.26.

 バロージャは厳寒の地、カレリア生まれなのに、半ズボンをはき、サングラスなどをかけ、すっかり熱帯の気候になじんでいる様子だった。しかし祖国のニュースは逐一チェックしているらしく、「我が国の宝、エルミタージュのダナエを傷つけるなんて許せない!」と息巻き、そして「行きたいところはどこ?」と私にたずねるのだった。
 (鮎)2005.10.27

 フィリピンへ来たくて来たわけではない。初めてで全く知らないから、行きたいところもなかった。私が沈黙を続けていると、バロージャの方から切り出した。
 「じゃあ、用事ついでに、うちの缶詰工場でも見学させてあげようか。」
 車で一時間ほど走ったところに缶詰工場はあった。工場に入ると、耳をつんざくような騒音と魚臭い匂いの中、二百人ほどの女工たちが解凍されたイワシを包丁で捌き、缶詰に詰め込んでいた。その向こうにはトンネルのような機械が数列並んでいる。
 バロージャは私にウィンクすると、工場の二階へと続くペンキの
剥げかけた鉄板製の階段を顎で示し、自分から先に上っていった。扉を開けると、事務室があり、五名ほどの現地人が机に向かっていた。その奥にもうひとつ部屋があった。
 「さあ、どうぞ。」
 バロージャに促されて中に足を踏み入れた私は我が目を疑った。
 (貝)2005.10.28

 ドアーをあけるとピンク色の照明がまたたいていた。
 ミニスカートのフィリピーナが4人、いっせいに微笑んだ。「いらっしゃいませー」とは言わなかったが、バイトの帰りに酔った勢いで一回だけ行った西日暮里のフィリピンバーを思い出した。
 二人のフィリピーナに両手をとられ、ソファーに座らされた。テーブルを見るとキャビアやイクラや様々なロシアの定番の前菜が所狭しと並んでいた。サーラという豚の脂の塩漬けまであった。
 両脇のフィリピーナはぴったりと体を押し付けてくる。やもえず両手を挙げて彼女らの肩を抱く形になった。
 「まずは異郷の地で出会ったことに乾杯しよう」
 バロージャはストリーチナヤヴォトカのキャップをまわし、小さめのグラスになみなみと注いだ。
 「フィリピンにようこそ」
 バロージャは一気に飲み干した。
 (鯨)2005.10.31

 彼女たちは私よりうまい英語を操ったが、グラスを合わせるときだけは「カンパーイ」という日本語を使った。私は大酒をくらうタイプではない。しかし越後生まれである。酒には強い。バロージャやフィリピーナたちが唱える「カンパーイ」の声に合わせて何度もグラスをあけた。
 フィリピンに着いたその日に、まだホテルにも入っていない昼の日中に、妙齢の女たちを侍らせて、見知らぬ男と見知らぬ場所で酒を飲んでいることの摩訶不思議に思いをめぐらせるのが、こういう場合の常識である。が、その常識が働く前に、私は「カンパーイ」責めに酔いつぶれた。真夏のヴォトカはロシア人でも敬遠するものだとは後で知った。ほどなくして床と天井が回りだし、フィリピーナの膝に寄りかかったところまでは憶えているが、そこで記憶が途切れた。
 (蛸)2005.11.01.

 「おい、大丈夫か? 何でニヤついているんだよ?」
 バロージャは心配そうに上から覗き込んでいる。それと、さっきまで両脇にいたフィリピーナの二人も。いや、この二人は事務員だった。事務所の入り口付近で気持ちのいい挨拶をしてくれたあの二人だ。
 バロージャによると事務所の奥にある部屋への入り口は低いので、私は額を打ち付け、そのまま後ろに倒れ、後頭部まで床にしたたか打ったということであった。そう聞いたら、思い出したように頭が痛くなってきた。でも、別段異常はなさそうだ。なるほどそうだったのか。缶詰工場の二階にフィリピンパブがあろうはずもない。私は失神したついでに夢でも見ていたのか。それにしてもあまりに直接的で貧困な想像力なので、思い出しながら赤面してしまった。
 「血圧が高そうだが・・・」
 バロージャはそんな私をまた気遣ってくれた。
 (貝)2005.11.02

 正気がもどってくると、周りを見回す余裕が出てきた。そこで私は見知った顔をみつけた。ナホトカで別れたままになっていたナターシャである。彼女も私をおぼえていたとみえて、「ニャーン」と鳴きながらすり寄ってきた。何故ここにナターシャがいるのか、私は混乱してきた。
 (鮎)2005.11.2

 「なぜ君の愛した猫がここに居るのかわかるかね。」
 バロージャは誇らしげに笑った。
 「私はKGBのマニラ支局長であり、缶詰工場の社長であり、そしてソ連が誇るバーチャルリアリテイの第一人者なのである。」
 何をいっているのだ。
 「私はついに希望するものと触れることができるバーチャル空間をこのフィリピンで完成させたのだ。」
 はあー。
 「君は缶詰工場に連れて来られた時、せっかくフィリピンに来たのだから、かわいいフィリピーナと飲みたいと思った。そしてフィリピーナに寄り添われたとき、自分が愛した猫を思い出したのだ。それでその猫が現れたのであるのである。」
 だったら彼女もだしてくれ。
 (鯨)2005.11.6

 「平山さん、どこへ行ってらしたの?」
 という懐かしい声が背後から聞こえてきた。
 慌てて振り向くと、丸の内でスケッチをしていた時の夏子が消え入りそうな笑みを浮かべながら、そこに佇んでいた。
 「夏子!」
 私は立ち上がると、夏子に歩み寄った。まさしく夏子だった。だが、小柄なはずの夏子がいやに大きい。身長が二メートル近くはあるだろうか。違和感を抱いたが、それも一瞬のことで、どこからどこまで本物の夏子の迫力に圧倒された私は、相撲取りのように大きな両手を取ると、じっと顔を仰ぎ見た。このアングルから夏子を見たのは初めてであった。
 「すまなかった。」
 思わず私は夏子を抱擁し、夏子の胸に顔を埋める格好でむせび泣いた。
 後ろでバロージャの声がした。
 「まだサイズ補正に難があるなあ。」
 (貝)2005.11.6

 その声を聞いて後ろを振り返ると、腕の中の夏子が見る見るうちにしぼんでいって最後は消えてしまった。
 「ナターシャと夏子に会わせたのだから、これからはナホトカで約束した仕事をしてもらうことになる。」
 バロージャが言った。
 (鮎)2005.11.9

 専門家の間ではよく知られていることだが、レンブラントは「ダナエ」を描き変えている。最初に描いた「ダナエ」は、若くして逝った妻サスキアの顔をしていた。最愛の妻を失った悲しみの中、レンブラントは彼女の姿を心をこめて再現したのである。ところが、その後、彼はこの絵の上に新たな筆を入れた。このとき「ダナエ」は別の顔に、今あるような顔に生まれ変わった。
 KGBの工作に荷担することの交換条件のようにして、切り裂かれた「ダナエ」を私が求めたのは、無意識のうちに、「ダナエ」の描き変えを想定していたのかもしれない。失った女を絵の中に再現する、その絵は「ダナエ」をおいてほかにない。傷ついた「ダナエ」は、たとえそれが贋作であろうとも、必ず私が修復する。何年かけてもなしとげる。私もまた夏子を、命より大切な女を、あこがれのレンブラントの名作の中に、自分の人生まで狂わせた「ダナエ」の中に、呼び戻したかったのだ。
 「バーチャルリアリティーか・・・」
 先ほど別れたバロージャを思いだし、私はつい微笑み、そして感謝した。
 KGBが求める仕事をするかたわら「ダナエ」の修復に取り組むのも悪くなかろう。マニラのホテルの部屋で、私は自分にそう言い聞かせた。
 こうして私は、西洋絵画の鑑定を職業とするようになった。普段はまじめな鑑定人として働き、ときどき持ち込まれるKGBがらみの贋作に対しては「真性の本物である」と折り紙をつけた。西側の、第三者の顔をした、それなりに名の知られた鑑定人、そういう存在に私はなった。
 (蛸)2005.11.10.

 鑑定人としての箔をつけるため、KGBは「トレチャコフ美術館公認鑑定人」とかいくつかの肩書きをくれた。いつしか「マニラ在住のロシアに強い経歴不明の鑑定人」として評価が確定し、世界中を飛びまわるようになった。
 マニラをベースにしたのは、幻であれ、夏子とナターシャに会うためである。缶詰工場の奥で、夏子とナターシャはいつも機嫌よく迎えてくれた。
 そしてもうひとつの理由は、レンブラントの妻サスキエの動く姿を何としても見たかったからである。そして残念ながら私が望むだけでは、サスキエは現れなかった。
 私はバロージャの装置の改良を何度も期待し、何度も失望した。
 やがてソ連が崩壊した。
 (鯨)205.11.11

 ソ連国内は混乱を極め、闇の仕事を受け持っていたKGBは相対的に力が弱まっていった。モスクワからの命令が途絶え、バロージャの給与振り込みもストップした。マニラでそれなりに羽振りのいい生活を送っていたバロージャはロシアへ戻るか、マニラに残るか悩んだが、結局母親のいる祖国へ帰っていった。私とKGBを結ぶ線が途絶えた。
 (鮎)2005.11.11

 KBGとの線が切れたことについては、私は何の痛痒も感じなかった。問題は「バーチャルリアリティ装置」であった。バロージャは装置の取り扱いを何も伝えずに去った。
 科学に疎い私は、一階の缶詰工場に投入されるイワシが関係
しているとは知らなかった。
 EPA(エイコサペンタエン酸)という物質がイワシに含まれていることはよく知られているが、その鏡像体の一種であるヘンテコパンダ酸が人間の脳に働きかけ、愛する者の幻影を呼ぶことは知られていない。バロージャがそのことを発見し、イワシからの抽出に成功した。そのヘンテコパンダ酸がなければ、装置はカラ回りするだけで幻影は現れない。
 バロージャが「ニューロシアン」と呼ばれる新興のビジネスマンとしてマニラに再び現れるまでの間、私は缶詰工場の奥の部屋で、装置相手にむなしい挌闘を続けたのであった。 帰ってきたバロージャは、私を気の毒そうな目で見つめ、装置の有効な作動にはイワシが必要なのだという秘密を明かした後、さらに気の毒そうな声でつけ加えた。
 「そのイワシは、海から消えた。もう獲れないんだ」
 (蛸)2005.11.12.

 私は相当落胆した顔をしたのであろう。バロージャは急に明るい声でこう言った。
 「平山、元気を出せ。イワシがなければ、サンマでいいのさ。それに、エイコサペンタエン酸と同じ働きをするドコサヘキサエン酸の鏡像体であるドコサイクサエンソク酸は、イザヤベンダ酸を触媒とした場合に、旋光性がヘンテコパンダ酸よりも桁違いに強まり、幻影でなく、実物を出現させるという仮説が、数年前、シベリアの奥地にあるノボシビルスク生化学研究所で遂に立証された。今まで私はビジネスの傍ら、そこの所長を兼務して資金援助をしてきたのさ。ソ連崩壊の煽りを受けて、このソラリス・プロジェクトも危うく水泡に帰すところだったが、どうにか次世代機製作に成功し、試作器をコンテナでマニラまで運び込むに至った。喜べよ。」
 恰幅は良くなったが若い頃の面影が残るバロージャを私は茫然と見つめていた。彼の言っていることはさっぱり分からなかったが、何やら見通しが明るいらしいことは表情と声から察することができた。
 「ただし、実物を出すということは、当然の事ながら、幻影を見るよりも比べ物にならないほどのエネルギーが必要だ。君が本物の夏子を出したいと心底望むのなら、君はエネルギーをごっそりと奪われることを覚悟しなければならない。」
 「私は一体どうすればいいのだ?」
 「これから毎日サンマを大量に摂取し、どんどん太りたまえ。体重が今の二倍になったら、我々の最新モジュールに入れてあげよう。」
 (貝)2005.11.12

 「さんま。」
 私は一瞬絶句した。
 「サーラ(豚肉の脂の塩漬け。ロシアのウオトカの友)ではだめなのか。」
 「今説明したとおりドコサイッタカ酸の複合的鏡の論理によりーー。」
 「もういい。」
 頭の中にサンマの大群が押し寄せてきた。
 「ちなみに脂のたっぷりのった三陸沖の戻りサンマがベストである。」
 「そんなもの、このフィリピンで手にはいるのか。」
 「わしは前のように予算を気にしながら活動する身分ではない。さらにこの装置が過度なエネルギーを使わなくてもよくなれば、莫大な利益を得られる。この装置によって、バーチャルな食い物を食べればダイエットを簡単にできるし、バーチャルな奥さんもらえば世界の人口問題解決できるし、さらにはーー」
 「もういい。」
 (鯨)2005.11.15

 とにかく サンマを見つけねば! と勢いたったそのとき、工場事務所の片隅に積んであった段ボールにさんまの缶詰があるのを見つけた。ロシアの加工船が作った物だ。ロシア語で記載がある。
 これだ!その日は段ボール一杯のサンマ缶詰を持ち帰った。
 (鮎)2005.11.16

 ロシアのサンマ缶はヒマワリオイル漬けで美味しかった。そんな感想も最初の数缶だけの話で、その日から私は毎日一箱三十缶入りを平らげていった。私の殺気だった雰囲気を感じて、バロージャは部下のフィリピン人たちに缶詰を毎日コンドミニアムの私の部屋へ届けさせた。ご飯やパンも食べはしたが、主食はサンマだった。サンマ三昧の日々が続き、私はどんどん太っていった。三ヶ月が過ぎ、その日の朝はバロージャ自身がサンマ缶の入った箱を持ってきてくれた。
 「お早う、平山。これで最後だよ。だがもう十分だろう。よく喰ったな。」
 バロージャは私の顔を見ながら言った。私の体重は三ヶ月前の二倍に達していた。
 その日の夕方、最後の缶詰を食べ終わった私はひとり部屋で呟いた。
 「ご馳走サンマ!」
 (貝)2005.11.16

 また夏子に会えると思うと、私は心の高ぶりを抑えることができず、その夜は眠れなかった。ただ、どこかむなしくもあった。まぶたに浮かぶ夏子の姿がときどきサンマの形に見えた。あわてて頭を振り、重い体で寝返りをうつと、今度は自分が瀕死のマグロに思えた。何かが壊れかけているような気がした。
 (蛸)2005.11.18.

 夏子が現れた。昔ながらの清楚で小柄な夏子だった。
 バロージャはどうだという風に肘で私をつついた。
 夏子は微笑み、そして私を見た瞬間眉をひそめ横をむいてしまった。
 「夏子、僕だよ。」
 夏子はついには後ろをむいて振り向いてもくれなくなった。
 「バロージャ、どうなっているんだ。」
 「視覚的には再現できるが、個々の性格や感情の移ろいは再現できない。わかるだろ。ただ感情がないと味も素っ気もないから、最大公約数的な性格はインプットしたんだ。つまりフィリピーナは明るく、猫は気ままな性格に、そして若い娘はすべからくハゲとデブは嫌うようにしたんだ。」
 私は無理して太った。そして自然に髪の毛は薄くなっていた。
 私は、レンブラントの妻サスキエを見ることもあきらめた。動くサスキエを見ることが、ダナエに隠された彼女を再現するのに不可欠と考えていた。ただ、慈愛に充ちた眼でレンブラントを見るサスキエでなければ何の意味があろうか。
 私は日本に戻る決心をした。
 (鯨)2005.11.18

 気が付いたら時計はすでに正午を回っていた。ここまで一気に書いて夏子へ送ったら、それと前後して夏子からメールが届いた。
 「私には平山さんにどうしても話しておかなければならないことがあります。実は、二十年前、あなたに絵の鑑定を依頼したのは私の祖父だったのです。当時、祖父は大明治製紙の会長をしていました。絵画のコレクターとしても知られた存在でした。ジイサンの窮状を何とかしてあげたいと思った私は、あの話を密かにあなたに持ちかけてくれるよう祖父にお願いしたのでした。孫の私を目に入れても痛くないほど可愛がってくれた祖父は、このややこしい願いを聞き入れてくれました。これですべてがうまく運ぶと思っていた私は、後で自分の軽率さを悔やみました。いくら待ってもあなたは帰国されないのですから・・・」
 (貝)2005.11.18

 大明治製紙の会長?
 絵画のコレクター?
 あの金原泰造か!
 今は亡きその男は、戦前、軍部に取り入って政商として一代で財を築き、戦後は闇将軍とつながって政財界で重きをなした。その金原泰造が夏子の祖父? 夏子の姓は「小川」であったはずだが、母方の祖父なのだろうか。あるいは、老いてもなお艶聞が絶えなかった金原の、妾腹のひとりが夏子であったのか。いずれにせよ、私は言葉を失った。
「金原泰造」
 私は口に出してつぶやいた。私はその名前を知っていた。というよりも、忘れようもない名前であった。
(蛸)2005.11.19.

 ここで「私の祖父も金原泰造だった。」というと韓国ドラマになるが、そうではない。フィリピンでよく彼の名を耳にしていた。世界中であらゆる美術品を買い漁っていたので、その業界では色々な噂が飛び交っていた。あるときフィリピンで世話になっていた日本人の広川さんから、出張でフィリピンに来た人の案内役兼運転手を頼まれた。暇だったので気軽に引き受けたが、その日本人が金原泰造だった。初対面から圧倒されたのを覚えている。
 (鮎)2005.11.22

(舞台裏集音マイク)

平成東京物語(その3)に続く