物語ハマっ子ノスタルジー
『園長への手紙』 第9話「元町幼稚園」より (第3話) 広瀬裕敏 元町幼稚園園長先生 突然のお便り失礼いたします。 私はアイルランド系アメリカ人で、現在米国の食品会社の日本支店に勤めております。 私は日本語会話は不自由ないのですが、この手紙は会社の同僚に翻訳してもらっています。 彼女は横浜出身で、それは以前から分かっていたのですが、最近雑談のなかで、彼女は元町幼稚園の同期生だということが分かり、懐かしい思いでいっぱいになりました。 彼女は00という苗字で、煎餅屋の娘さんで、60年から61年、近くの男の子と通っていたそうです。ご記憶にないでしょうか。 私は多分覚えていらっしゃらないと思います。 そちらの幼稚園に通ったのはたった一週間でした。 当時基地で経理をしていた父や母が親日家だったのはもちろんですが、カトリックの幼稚園に通わせたかったのでしょう、9月の始めいきなりそちらに連れて行かれました。 当たり前のことながら日本語がまったくわからず、幼い子供には苦痛な日々ですた。庭で男の子たちに囲まれてはやし立てられるのには閉口しました。 家に帰って両親に訴え、なだめられる日々も一週間が限界でした。 最後の晩、日本は敗戦国のくせに、といった趣旨の訴えを両親にしたとき、父は叱るのでもなく、先祖の話を始めました。 曽祖父が飢饉でアイルランドからリパブールに移り住んだこと、祖父が親戚を頼ってアメリカに渡ったこと、アメリカでの苦労、差別について。そして民族や国に優劣はないこと。 難しくて全部はわかりませんでしたが、日本人を嫌いになってはいけないと諭しているのだけはよくわかりました。 父の赴任期間が過ぎてアメリカに帰ってすぐ、ケネデイ大統領が暗殺されました。 両親の、とりわけ母の嘆きは見るに耐えませんでした。 今から思えば、カトリックのアイルランド人ではこの国では長く続かないのだという空気がアイルランド移民のあいだにあったのでしょうが、当時の私は、マリア様の前で一日中祈っている母の背中を見て、早く大人になろうとだけ思っていました。 大学では日本語を専攻しました。子供の頃横浜に住んだキャリアがもったいない気がしたからでしょうか。 この手紙を園長先生に差し上げた理由は、たった一週間で逃げだしたことを後悔しているからです。 そして私のような男の子をサポートできなかったことを、先生方が気にされていたのではと思ったからです。 どうか気になさらないでください。私は日本が大好きになりました。 同僚の彼女と元町幼稚園の思い出話をしています。 彼女は一緒に通った男の子がちょっと好きだったことなど話してくれます。 残念ながらたった一週間の私には、きつい坂道と庭のジャングルジムくらいしか覚えていませんが。 最後の日は少し覚えています。両親に手をつながれうなだれている私の頭を、シスターや先生方がやさしくなでてくれました。 幼稚園の門をでるとき、男の子がひとり、「じゃあねまた」と私たちに声をかけました。両親は男の子に微笑み、私は上目遣いに男の子を見ました。 男の子の笑顔にまったく屈託はありませんでした。 神のご加護を。 1982年0月0日 署名 |
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