物語ハマっ子ノスタルジー


『幕末本牧漁師物語』 第78話横浜少年物語より
(第4話)
                              広瀬裕敏

 黒船が来たのは弥平がまだ船に乗る前のことである。
 本牧の村でも大騒ぎになったことはよく覚えている。
 もっとも漁場になんら影響がないとわかったら、また漁師の家の日々の暮らしに戻った。毎日船を出す父や兄たちを見送り、船が戻ったら、魚を選り分け、網の手入れを手伝った。
 次の年嘉永七年(1854年)再び黒船が来た時は、六浦(横浜市金沢区)の漁師が、沖に停泊している黒船に乗り付けて魚を売ったことが、本牧村にも聞こえてきた。
 その年の晩秋大きな地震(安政地震)があった。黒船と結びつけて神罰といった噂も流れたが、海が相手の漁師にとって、それもただ受け入れるだけだった。
 地震のあと安政に年号が代わり、次の年の正月から弥平は父の船に乗ることを許された。
 弥平が十四の歳で、体の大きい祖父や父の血を継いで五尺近くの偉丈夫になっていた。
 弥平の家は何代も続く本牧の漁師である。
 漁師の守護である十二天社(本牧神社)のお膝元の誇りを持っていた。となりの横浜村や根岸村が浜で地引をしているのと違って、江戸湾すべてを漁場にすることが認められていた。
 獲った魚は江戸日本橋の河岸にも納めていたので、船も大きく、日々の暮らしに困ることはなかった。
 江戸を知ることで、時代の空気も周りの村よりよくわかっていた。
 弥平の母親は上総の国君津の出身である。弥平の家は上総や安房にも親戚が多く、法事の時など、一族の船を連ねて内海を渡った。
 生活に不満もなく、黒船も地震も時代の大きな流れも、弥平にとってどこか他人事だったが、となり村の横浜の変貌は気になるものだった。
 まず物価が日々上がった。米の値の上昇に合わせるように、水夫たちの給金も大きく上げざる得なかった。
 横浜では大規模な埋め立てが始まって、きつい海の仕事をしなくても、土方仕事で現金収入が得られるのだから当然だった。
 横浜は水さえ商いの種になった。ほとんどが埋立地なので水利が悪く、和田山(現在の山手一帯)の麓で採った水を牛車で運ぶだけでいい利益になった。
 いつしか本牧で散策を楽しむ外国人も見かけるようになった。
 後に八王寺ビーチと呼ばれる本牧の砂浜で、海水浴に興じる西欧人の男女を村人は遠巻きに見ていた。
 横浜の大火(豚屋火事)は、弥平が二十五の年、慶応二年(1866年)十月のことである。
 和田山の向こうが空いっぱい紅く染まり、尋常な火事でないことはすぐわかった。
 「じいさまの家で待ってろ」
弥平は怯える一人娘のまつに言った。
 弥平は十八の年に父と同様に君津から嫁をもらい独立した。
 すぐに娘を授かったが、産後の肥立ちが悪く、三年後に嫁をなくした。弥平は娘を溺愛した。
 弥平は村の若者たちと、水樽を牛車に積んで和田山を越えた。
 焼け残ったシナ町の近くで、避難してきた人に、日本人外国人の区別なく水を振舞った。
 「廓(くるわ)も何もなくなったの」
そう言って指差す従兄弟の言葉に、弥平も目を向けた。
 弥平も所帯を持つ前、この従兄弟に誘われて港崎(みよざき)遊郭(現在の横浜公園)に行ったことがある。
 もちろん紅毛人や大商人の行く表通りの大店ではない。
 裏店を出て、華やかな表通りを行き交う、洋服を来て時流に乗った風情の男たちを見て、「ここは砦だ」と弥平は思った。
 事実湿地帯の真ん中に造られ、堀を巡らした全体が砦のようだったが、本牧村で事件がないのもこの砦のお陰のような気がしていた。
 水がなくなった後も、火の粉に怯える牛を曳いて避難を手伝った。
 疲れきった牛を曳いて和田山をこえて帰るとき、道端で女が倒れているのを見つけた。
 秀麗なうちかけと化粧で、この女が港崎遊郭の遊女であることはすぐわかった。
 堀を超え沼を渡ったのだろう、泥だらけの顔は疲れきっていた。
 弥平は水樽の脇に女を乗せた。
 まつは泥だらけの女を見て驚いた。
 どこで習い覚えたのか、すぐに湯を沸かし、体を拭いて寝かしつけ、粥まで作った。
 数え七つの幼女が一人前に介抱するのを、弥平は目を細めて見ていた。
 次の日からさらに七日弥平は横浜に通った。
 この間の事情は、フランス海軍士官スエンソンが手記に記している。
「(放火ではないかという噂は)まったく根拠のないことが判明した。日本人自身、西洋人よりはるかにひどい火災の被害を受けていて、にもかかわらず、あっぱれな勇気と賞賛すべき犠牲心と沈着さを発揮して、西洋人の貴重品を無事に運び出す手伝いをしたのだった」
「焼けおちて今はもう平らな野原だけになってしまったヤンキロー(岩亀楼)だけでも、三十人近い娘があるいは炎に包まれて、あるいは水にのまれて命を落とした」
「日本人はいつに変わらぬ陽気さ呑気さを保っていた。不幸に襲われたことをいつまでも嘆いて時間を無駄にしたりしなかった」
 女は日一日と元気を取り戻し、まつは女になついていた。
 三日目には、まつが与えたのだろう、妻の野良着を着て働き出した。
 「雪乃さんて言うんだよ。きれいな名前」
まつは眼を輝かせて、夕刻横浜から戻った弥平に告げた。
 六日もたったころ弥平は、源氏名だとすぐわかる雪乃に、郷はどこかと尋ねた。
 相模の親元に帰ることを勧めた弥平に、雪乃は、化粧を落としても美しい眼に涙をためて、もう少し居させてくれと頭を下げた。
 生きていることがわかれば、廓から追っ手がでることを恐れているのが弥平にも想像できた。
 年があけて親戚が集まったとき、村中の噂になっていることを父から言われた。
 雪乃の出自がわかった上で、父は好きにしろと言った。
 家にはまつの笑い声も戻ってきており、弥平も決断する時期が来たと思った。
 弥平は本牧神社の大宮司を訪ねた。
 「もらえばええ」
大宮司は顔中しわだらけの笑を浮かべて言った。
「本牧はいつも海から贈り物を受け取ってきた。その娘も海からの贈り物と思えばええ」
 その足で雪乃を誘い出し浜に出て、まつの母親になってくれと告げた。
 雪乃は涙でくずれおちてかぶりをふった。
 自分は岩亀楼の女郎だったこと、まだ借金がたくさん残っていること、廓に気づかれたら迷惑になることなど途切れ途切れに話した。
 「そんなことどうでもいいじゃん」
弥平はなおもかぶりをふる雪乃を促し、和田山を登った。
 横浜に近づくことに怯える雪乃に、和田山の尾根から横浜を指し示した。
「もう岩亀楼はない。横浜はまったく新しい街になるだろう。心配せんでええ。万一誰か来てもわしが守る。本牧村が守る」
 雪乃はまたあふれる涙で横浜が見えなくなった。
 帰り道弥平は本名を尋ねた。
「ヨシといいます」
恥ずかしそうに、でも少し嬉しそうに雪乃は答えた。
漁師の女房らしいいい名前だと思った。

 
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