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さくら野文壇 

【第10作目】


サケマス色々

 近年はサケマスが安くなりました。シロザケは人工孵化技術の向上によってわんさか日本の川に帰ってくるし、ギンザケは養殖できるようになった。そういうことが影響しているのでしょう。かつては海の女王と謳われたベニザケまでが安くなっています。好きな方はお買い得です。ただし、私どもの会社はサケマスを取り扱っておりませんので、お力にはなれませんが。
 ロシアでは、サケナスの通称は「赤い魚」です。身が赤いからでしょうけど、まことに大雑把な命名で、いかにもロシアらしい。とはいえ、ロシアの海で身が赤い魚といえばサケマスぐらいしかいませんから、これで十分通用するのです。
 ロシア式命名法を笑うわけにはいきません。一群の魚を色で一括するのは日本でもおこなわれているからです。たとえば「青物」と呼ばれる魚たちがいます。サンマ、ニシン、イワシなどのことです。これらの魚に共通する特徴は、回遊魚であること、季節的に大群を形成するので大量漁獲が可能なこと、したがって一般に安価であること、などがあげられます。それにもうひとつ、背中が青々と光っているという共通点がある。だから「青い魚」、すなわち「青物」なのです。たいての水産会社にはこれを専門に扱う部課があり、普通は「青物課」と名乗っています。「○○水産・青物課」なんて名刺を出されると、業界外の人は「キャベツやホウレンソウまで売っているのか」と首をひねるでしょうね。
 さて、日本語の「サケマス」ですが、「サケマス」という名の魚がいるわけでなく、いるのは「サケ」と「マス」ではないか、と考える方もいらっしゃると思います。その考え方でいきますと、シロザケ、ギンザケ、ベニザケが「サケ」です。それぞれ色の名を冠しているのは、「青物」同様、日本人は体表の色合いに注目したからです。これに対して「マス」に該当するのが、カラフトマスとサクラマスです。これは右の「サケ」三種より小さい。樺太にたくさんいるのがカラフトマス、桜色の斑点をもつ優雅なのがサクラマスです。魚の名前は即物的で、わかりやすいですね。あとひとつ、マスノスケというのがいます。名前の中に「マス」という文字が入っていますが、英語名はキング・サーモン。サケマスの中で一番大きい。これは何だと問われれば、まあ、どっちでもよいのですが、感覚的には「サケ」の部類に入れることになるのでしょう。以上の六種類が、一般にいうところの「サケ」と「マス」です。
 しかし、「サケ」と「マス」という区分に生物学的な意味があるわけではありません。分類の上では、全部オンコリンカス属という同じ種族に属しています。つまり、同属の六種の魚を、昔の人が大きさや色をたよりに「○○ザケ」「○○マス」と名づけたにすぎない。だから「サケ」と「マス」に区分するよりも、ひとくくりにした方よいということで、一括して「サケマス」と称するようになったのです。
「サケマス」という言い方は、どちらかといえば業界で使われている用語です。より学問的な表現を好む人は「太平洋サケ」と言います。この用法に従えば、「サケマス」六種はすべて「太平洋サケ」の一種なわけで、どの魚であれ「サケ」と略称してもよいことになる。たとえば「サケ茶漬け」の中に入っている「サケ」。あれはたいがい一番安いカラフトマスです。でも不当表示ではありません。単なる簡略表示です。とはいえ、ベニザケやギンザケといった高級な「サケ」を売るときは、商売人は簡略表示などせず、ちゃんとフルネームで「ベニザケ!」と大書して売りますけど。
 サケマスは地域によって嗜好が分かれます。ロシア人は概してこれを好みます。日本でサケマスを好むのは、北海道から関東あたりまででしょうか。西の人はあまり食べない。でも、そういう細かいことは外国人には見えにくいのでしょう。日本人全部がサケマス好きだと思っている人が多い。
 韓国の貿易会社のキムさんが釜山のレストランでご馳走してくれたとき、彼はいろいろな魚の名前をあげて日本の魚料理を褒めてくれました。私は相づちを打ちながら聞いていたのですが、途中でベニザケの名が登場したものだから、「ほー、サケマスは西日本ではあまり食べないけど、韓国では人気があるのですか?」と尋ねました。彼はうろたえて私を見つめ、「あれはおいしくありませんか?」と訊き返してきました。私は日本のサケマス嗜好分布を説明し、私自身は非サケマス圏の出身であることをうち明けました。すると、キムさんは、「実は、私もあまり好きではないのです。ベニザケがうまいといったのはお世辞です」と白状しました。すっかり安心したキムさんは、サケマスでいかにひどい目にあったかを、今度はおおっぴらに語ってくれました。
 最近は釜山港がロシア水産物の集配場みたいになっておりまして、ロシアからベニザケがやってきたとき、買い手の日本人からキムさんは一箱もらったそうです。彼は家に持ち帰って奥さんに渡しました。試しに一匹食べた奥さんは、これはいったい食用の魚か、と夫をなじった。このようなわけのわからぬ魚を一箱三〇キロも持ち帰るとはいったいいかなる了見か、家で食べるわけにもいかず、かといってご近所に配ることもできない。怒った奥さんは「捨てる」と言い放ったそうです。
 キムさんも怒りました。好意でいただいたものを捨てるなどもってのほかだし、それに彼は値段を知っていた。いかに安くなったとはいえ、韓国の他の魚に比べれば、ベニザケは格段に高価なのです。
「捨てることはあいならん!」
「それじゃ、あなたが何とかしてくださいね!」
 奥さんはむくれてしましました。
 捨てるなとは言ったものの、改めて三〇キロのベニザケの山を眺めると、さすがのキムさんも途方にくれてしまいました。思案の末、彼は釜山とその近郊に住む一族郎党を呼び集めました。彼の家ではたまにこれをやるそうです。商売柄手に入ったカニや魚を以前から一族にふるまってきたので、このときもみんな喜んで集まってきました。ところが来てみれば、妙な魚がドサッとテーブルに乗っている。食べてみると、まずい。
「なんだ、これは!」
 大騒ぎになった。みんなから責められた奥さんは、「捨てようと思ったのですが、主人が捨てるなというものですから・・・…」と言い訳をしてしまいました。これが一族の怒りの炎に油を注いだ。
「我々の口はゴミ箱か!」
 大変なことになったそうです。
 実は、私にとっても他人事ではありません。いつだったか「魚卵詰め合わせセット」というやつを親戚一同に贈ったとき、女房の親戚から電話がありました。
「カズノコとタラコ、ありがとう、ところで、もうひとつある気色悪いのは何?」
「それはスジコといって、サケの卵です」
 電話の向こうはいかにも困ったという雰囲気でした。後で女房から
「なんでそんなものを送ったの!」
と叱られてしまいました。
 この話をキムさんにすると、
「同じですね、同じですね」
 と、彼は本当に嬉しそうな顔でうなずきました。


(本文は、風人社 "KAZESAYAGE"2004年5月号に掲載されたものです)
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