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さくら野文壇 

【第11作目】

   
  
生存競争

 ここに盗聴記録があります。ロシアの国家機関が漁業会社と漁船の交信を傍受し、違反操業の証拠として裁判所に提出したものです。ソ連時代のなごりか、あるいは今の時代の傾向なのか、ロシアでは通信傍受や電話盗聴がさかんにおこなわれています。

 漁船「もしもし、おはようございます」
 会社「もしもし、おはよう。仕事は順調か」
 漁船「まあまあです。ところで××号はどこの船か知っていますか」
 会社「××号? ああ、たしか○○社のトロール漁船だ。それがどうした?」
 漁船「いえ、別に。近くにいますから」
 会社「ふーん、××号は違反操業で捕まったって聞いたことがあるけどなあ」

 交信記録はこういうありふれた会話から始まるのですが、数日後、事態は急転。

 漁船「もしもし、もしもし、本船は尾行されています」
 会社「えっ、本当か。どんな船だ?」
 漁船「××号です」

 この××号、少し前に取り締まり当局に拿捕され、その後、覆面監視船として使われていたのです。そういうことがわかってきたものだから、さあ大変。漁船が「あのー、魚がちょっと余分にあるんですが……」と言うと、会社は「そんなの捨てろ、捨ててしまえ!」と怒鳴る。

 会社「余計なものは捨てたか?」
 漁船「今、海に投げています」
 会社「××号はどこだ?」
 漁船「追ってきます」
 会社「早く逃げろ!」
 漁船「はい、逃げます」

 漁船は逃げのびたものの、会社の方に呼び出しがかかりました。証拠もないことだし、会社側は違反を断固否定。裁判になりました。その法廷に盗聴記録が出てきたものだから、会社側は愕然。罰金刑とあいなりました。
 イワンは、憤懣やるかたない表情で、この出来事を教えてくれました。当局は、裁判への対応を話し合った会社の電話も盗聴していて、その電話でイワンが裁判官のことを「山羊みたいなオカマ野郎」とののしった部分が肉声テープで法廷に流れたそうです。
 裁判官「この山羊というのは誰のことですか?」
 会社側「……」
 あの瞬間、敗訴が決まったようなものだ、とイワンは嘆きました。違反といっても大きな罪を犯したわけでなく、裁判官だって大目に見てくれる余地はあった、しかし、あの一言のおかげで目一杯の罰金を、しめて十数万円を取られた、というのです。
 イワンは懲りもせず、山羊だの能なしだのと裁判官の悪口を言うので、「この部屋、盗聴されていないか?」と私が言うと、彼はあわてて口を押さえました。
 現在の漁業は、網を引いてよい場所とか、許可された魚種とか、獲ってもよい数量とか、そういったさまざまな制約の上に成り立っています。資源保護の規制を敷かないと、現代技術をもってすれば魚を獲り尽くしてしまうからです。
 しかし、漁師はつい違反を犯しやすい。たとえば、入ってはいけない水域があるとします。しかし海の上に線が引いてあるわけではない。魚を追いかけているうちに許可水域をはずれてしまうことがある。あるいは網にどさっと魚が入ったとき、許可数量を超えたからといって捨てるのは惜しい。沿岸近くなら自制心も働くのでしょうが、周りに人目がないとなれば、ましてや四方が水平線の海の上となれば、「まあ、いいや」ということになりやすいのです。
 そのときの漁師の心境は、たとえは悪いが、立ち小便に似ている。してはいけないとはわかっている。だから公衆の面前ではしない。しかし、人気のない山中でこれをしても罪悪感は感じないものです。漁師がこの種の違反を犯したとき、密漁という意識は希薄です。実際のところ、厳密にはこれを密漁と呼ぶべきではないでしょう。本当の密漁とは、同じ比喩を用いるならば、最初から立ち小便をたくらむ集団がひそかに山に入り、ところかまわず一列に並んでそれをおこない、計画的にそれを繰り返すようなもの。いかに山中といえども、これはいけません。
 ならば、まじめな漁師のちょっとした出来心は許されるかというと、漁師の数が少なければ大目に見ても差しつかえないかもしれません。しかし多数の漁師があちこちで、のべつまくなしに出来心を起こしたら、それはそれで困ったことになります。一罰百戒ということで、当局は厳しい。
 普通でさえ漁業にはそういうあやうい一面があるのですが、ロシアの場合は、以前にも書きましたが、漁業権(魚を獲る権利)のオークションという制度がある。漁民は魚を獲る前に、魚が海を泳いでいるとき、その魚をキロ当たりの値段で、獲りたい数量を政府から買わなければなりません。オークションだから人より高値を出さなければ買えません。漁業権は非常に高くつくのです。しかも前払い。獲れなくても返金されない。こうなると、漁民としては、何が何でも獲らなくてはならない。少々の違反にはかまっておれなくなる。
 ロシアは違反の取り締まりがこれまたすごいのです。監視船は武装しています。たまにロシア海域で日本漁船が銃撃されてニュースになることがありますが、彼らは自国の漁船も平気で撃つ。漁船銃撃などはロシアではよくあることだから、ニュースにもなりません。盗聴も日常茶飯事だし、衛星を使ったモニタリングシステムで漁船の位置を監視したりもします。北朝鮮の工作船に対する日本政府の対処よりも、ロシアの自国漁船取り締まりの方が怖い。
 違反が見つかった場合、イワンの会社のように裁判まで行くケースもあれば、その場で罰金を払ってしまうケースもあります。許可水域の外にはみだして網を引いてしまったサーシャの会社は、どういう計算かわからないけれど、六千万円の罰金支払を命じられました。真っ青になったサーシャのねばり強い交渉の結果、罰金は大幅に減額されました。なんと六千万円が三百万円になった。領収書なしの現金払いという条件でした。漁師側も必死なら、当局側も生活がかかっているようです。一種の食物連鎖ですな。ロシアの海には、プランクトン─魚─漁船─監視船、という食物連鎖があると思えば理解しやすい。

(本稿は、風人社 "KAZESAYAGE"2003年5月号に掲載されたものです)
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