さくら野文壇 

【第5作目】


 交通警察

 ロシアには「交通警察」と呼ばれる人たちがいます。交差点で交通整理を
したり、スピード違反を取り締まったりと、お巡りさんの一種と思ってもらえ
ばよいのですが、日本のお巡りさんとちがうところは、道路交通専門である
こと。刑事なんかが出てきて犯罪捜査をやる警察官とは別の組織に属して
います。刑事警察のお世話になることはめったにないけれど、交通警察は
道があるところには必ずいますから、実にしばしばお世話になる。ロシアで
はおなじみの存在です。

 この交通警察、ちょっとセコいところがあって、走りやすい直線道路の脇
の草むらとか、ゆるやかなカーブを曲がったあたりとか、そういう見えにくい
場所によく隠れている。気分よく走っている車をスピード違反で捕まえるの
です。彼らはスピード測定器を持っているので反論できません。逃げると
パトカーで追いかけてくる。それでも逃げると拳銃で撃ってくる。市民は逆ら
うことなど考えず、言われるままに罰金を払って済ませます。スピード違反
の罰金は、程度にもよりますが、三〇キロ超過で一万円ぐらい。几帳面に
領収書も切ってくれます。でも、「領収書は要らない」と言えば、半分から
三分の一にまけてくれる。親切な交通警察に捕まると、

 「ハイ、罰金です。領収書が必要なら一万円、要らないなら五千円。どちら
にするか選んでください」

 と、ていねいに選択肢を示してくれます。安い方がよいにきまっているか
ら、かくして領収書なしの罰金は、彼らの個人収入になるのです。

 数年前、ロシアで国家公務員の給与未払が深刻化した折りは、町の交通
警察の人数が急に増えました。交通警察がこんなにいるのはおかしい。
それほど数が多かったのです。

 「これは現役だけじゃないぞ。退職者も出動しているんじゃないか」

 そういう話でもちきりになりました。物知りが言うには、交通警察は退職
者の年金が払えなくなったので、退職者たちに道路標識を配ったらしい。
「進入禁止」とか、「速度制限」とか、「一方通行」とか、赤白の線や数字を
デザインした円形の標識が日本の道路にも立っていますね。ロシアもあれ
と同じです。あの道路標識を、年金の代わりということで、一本ずつ退職者
に渡した。

 「これを使って自活してください」

 と署長が言ったとか。

 そういえば、あのときは、今まで通れた道が突然「進入禁止」になったり、
「速度制限30キロ」の道路がやけに増えたりして、あっちでもこっちでも
罰金を取られたものだ、というのは小話です。親切な交通警察が罰金選択
制を解説してくれたところまでが実話。

 こんな調子ですから、交通警察は市民に好かれていません。しかし、憎ま
れてもいない。交通警察を小バカにした小話はいっぱいあるけれど、そこに
は交通警察に対する嫌悪感はなく、むしろ彼らに対するそこはかとない
愛着が感じられるのです。まあドライバーからすれば、交通違反をやらか
して罰金をまけてもらえるのだから、憎む理由はありません。罰金着服とは
公務員にあるまじき行為ではないか、と怒る声も聞いたことがない。この種
のことは、ロシアでは政府高官から末端役人までみんなやっていて、交通
警察のやり口や金額など可愛らしいものだ、と思っているのかもしれませ
ん。しかし、私の見るところ、そういうことよりも、市民が毎日見ている風景
がものをいっているのではないか。夏の炎天下でも、冬の吹雪の中でも、
それこそ雨の日も風の日も、交通警察はいつも道路に立ち続けているの
です。車線も横断歩道も雪に埋もれる冬の危険な場所で、零下二〇度の
酷寒に耐えて、毎日欠かさず、黙々と車や人を導く姿もまた交通警察の
一面なのです。市民の本音は、あそこまでやってくれているんだから、少々
の悪さは大目に見るが、自分が当たるのだけは勘弁願いたい、といった
あたりでしょうか。

 つい先日、私どもも交通警察のお世話になりました。事務所の車が盗ま
れたのです。夜、イワンが目を離したスキに持っていかれた。窃盗者は、
ロックされたドアをいとも容易に開け、キーなしにエンジンをかけ、あっと
いうまに走り去った。その間、わずか数分。

 車がないことに気づいたイワンは、すぐに交通警察に通報しました。車の
型、色、ナンバーなどを伝えると、交通警察がすぐに手配をかけてくれるの
です。車はトヨタの四輪駆動車、ランドクルーザーです。ロシアでは評判が
高く、よく狙われます。しかし目立つので、即座に手を打てば交通警察の
網にかかる確率も高い。しかし、そのときは、交通警察が見つける前に
イワン自身が見つけました。私どもの車には、盗難防止の特殊な仕掛けが
してありまして、それが効いたのです。エンジンを始動するとき、ちょっとした
手順を踏むようになっています。この手順を無視してエンジンをかけると、
しばらくは普通に走れますが、何分か経つとエンジンが自動停止するよう
になっている。エンジンが止まるやいなや、車体からけたたましいブザー音
が出る。これはトヨタの仕様ではありません。ロシアに持ちこんでからそう
いう細工を施したのです。で、盗まれた車は、盗難現場からさして遠くない
ところで、音を鳴らして止まっていました。窃盗者はあわてふためいたよう
で、ドアは開けたままでした。

 翌朝、私とイワンがその車で走っていると、交通警察に止められました。
またスピード違反かと思ったら、係官は険しい顔で、

 「どこで盗んだ?」

 「えっ、これは我々の車だ」

 「ウソを言うな。盗難届けが出ている」

 私とイワンは顔を見合わせました。外を見ると、包囲されている。

 「おい、イワン、見つかったって連絡しなかったのか」

 「いえ、ちゃんと電話しておきましたよ」

 どうも連絡が行き届いていないらしくて、イワンは「オレはオーナーだあ」
と叫びながら、引っぱっていかれました。詰め所で、前夜の盗難と発見の
いきさつを説明したり、身分を証明したり、車の登録と照合したりと、すった
もんだの挙げ句、やっと私たちは解放されたのです。

 車を走らせながら、イワンが言いました。

 「腹は立つけど、怒る気になれませんね」

 「まったくだ。交通警察はよくやってくれてるよ」

 (2002年10月)

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