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さくら野文壇 

【第6作目】


 漁場調査

 ソ連時代のロシアは、漁業生産世界一の座を日本と争っていました。
その意味では水産王国と呼ぶべきなのでしょうが、そんな風に見えなか
ったのは、遠洋漁業一本槍であったからだと思います。本国の沿岸では、
漁業活動は細々としていた。水産業が盛んな国は、日本も含めて、漁業
は沿岸で発達して沖合に向かい、そして遠洋へ広がるという順路を経て
きました。しかし、ソ連はそうではなかった。沿岸をすっ飛ばして、沖
合・遠洋に大船団を送った。ソ連は計画経済でしたから、国家がそう決
めたのでしょう。その結果、すぐそこの海に、目の前の沿岸に、立派な
水産資源があるというのに、未利用のまま放置されてきたのです。

「沿岸漁業を振興すべきである」

 そういう声が、ソ連崩壊後、何度も湧き上がりました。しかし、沿岸
の加工基盤、物流、市場などが十分には整備されておらず、そういった
さまざまな障害に阻まれて、なかなか大変のようです。それでも何度か
の沿岸漁業ブームを経て、かなり改善されてきています。

「そろそろ、わが社も、ロシアの沿岸に手を出してみるか」

 ということで、適当な海岸線を選んで漁場調査をおこなうことになり
ました。昨年も一度実施しています。そのときは、わが社の二人が二艘
式底引き漁船に乗り込み、海岸線に沿って網を引いて回りました。今回
は私が行きます。今回の漁法は手釣り。
 私たちは、ベッドが二つの小さな船で出発しました。ロシア人八人と
私の計九人が乗ると、船は鈴なり状態。モーターボートを曳航しての船
出です。このモーターボートは、海岸に上陸するとき使います。それと、
本船にはトイレがないので、用を足すときなども、このボートに乗り移
って、漁場から離れたところでするらしい。

「漁場の汚染を防ぐためである」

 と船長が言っておりました。冗談か真面目か判別しかねた。

 私たちの船は、まず餌の調達に向かいました。栽培漁業で貝の養殖を
している場所が近くにあります。そこへ乗りつけて、海中に垂らしたロ
ープを引き上げると、ムール貝がわんさか付いている。それを拝借する
のです。かっぱらうのではありません。貝の所有者の許可はとってあり
ます。というか、船の所有者と同じだから、許可もへったくれもない。
そもそもこの船は、ここの栽培漁業の作業船なのです。

 餌の仕込みも終わり、緑の海岸線に沿って走る間、空は快晴、海はベ
タ凪ぎ、まことに気分がよい。すでに九月の半ばを過ぎていますが、大
気に温もりが残っていて、絶好の調査日和です。

 一時間ほど走ったあたりで、漁場調査の成功を祈願してということで、
さっそく乾杯が始まりました。ウオッカはもちろん、肉や野菜、パンや
チーズも用意してあります。狭い甲板上で九人がひしめき合っての酒盛
りは、田舎の海賊を思わせる異様さがあり、それにしてはちょっと平和
すぎるバカバカしさもあって、どう見ても珍奇な光景でありました。

 いよいよ最初の調査ポイントに着きました。海岸線には小高い丘が連
なり、木々が茂るばかりで、人が住む気配がまったくありません。岸は
磯になっていて、ゴツゴツした岩ばかりです。そこからさほど遠くない
海上に船を止め、さあ漁場調査の開始です。

 一人がアクアラングをつけて海に潜りました。ウニやナマコを探すの
です。残りの八人は魚の係。船から釣り糸を垂らします。さっきまでの
酒盛り騒ぎがウソのように、誰の目も真剣です。最初の獲物はオレが釣
る、という目つきです。

 サーシャがすぐに釣り上げました。カレイでした。してやられた私た
ちは、一応、祝福の言葉はかけたけれど、「小さい」と言って、けなす
のを忘れません。

 それから三〇分、みんな黙って糸を垂らしています。しかし、次の釣
果がありません。ときどきアクアラングのイワンが、ウニなどを持って
海から顔を出すのですが、誰も見向きもしない。ひたすら自分の釣り糸
を見つめている。

 ついに、「ここはダメだ」と誰かが叫びました。みんなすぐに同調し
ました。

「ここには一匹しかいないのだ」

「そうだ、ここの資源は一匹だ」

「もっと良い漁場を探すべきだ」

 船は再び走りだしました。また酒盛りが始まった。新たな肴は、カレ
イ一匹とイワンが採った生ウニです。カレイもウニも刺身で食べました。
イワンはナマコも採取したのですが、残念ながら酢がなかった。

 次のポイントは、実によく釣れました。誰の針にも次々魚が食いつく
ものだから、船上は歓声に包まれました。釣れるのはカレイばかりです。
同じカレイでも、ちょっと色合いが異なるのがあった。

「これは何というカレイだ?」

 そんなことを私に聞かれても、わかるわけがない。カニの見分けぐら
いはつくけれど、カレイなんかは全部同じに見えます。ロシア人たちも
同じで、結局、調査員九名のうち、誰一人としてカレイの種類を知らな
かった。種類の区別がつかないとなると、いきおい大きさを競うように
なります。

「おお、見ろ、三キロはあるぞ」

「いや、それはせいぜい二・五キロだ」
「見ろ、見ろ、オレのはまちがいなく三キロだ」

「なんの、待ってろ。すぐに四キロのを釣ってやる」

 誰かが釣り上げるたびに、そういう会話になる。このころになると、
海底調査係のイワンは、アホらしくなったのか、いつのまにかアクアラ
ングもウエットスーツも脱いでしまい、パンツ一枚で船の周りを泳いで
いました。

 その後、我々は、モーターボートで海岸に上陸しました。岩場に近寄
って磯の調査もやろうという考えもあったのですが、「あっちの方に、
きれいな湖がある」という声が上がったものだから、ボートはあっちの
方に向かいまして、湖のそばの砂浜に上がってしまいました。そんなわ
けで磯の状況はわからずじまいです。代わりに湖の報告をしますと、魚
はいそうです。しかし、湖の大きさから見て、底引き網を二、三回引い
たら魚が全部入ってしまい、資源は枯渇するでしょう。この湖は、漁業
よりもキャンプ場に向いております。

 湖の周りを散策した後、我々は海岸を離れました。ところが、海上で
モーターボートから本船に乗り移るとき、ひと騒動がもちあがりました。
モーターボートには四人が乗っていたのですが、みんな遠慮のないやつ
ばかりで、四人とも最初に乗り移ろうとした。で、四人がボートの片側
に集まったものだから、しかもそのうちの一人は体重が一〇〇キロもあ
るものだから、ボートがひっくり返ってしまいました。みんな泳いで自
力で本船に上がったのですが、パンツも靴もびしょ濡れです。ただし、
ズボンとシャツは濡れなかった。

 いったいどんな落ち方をすればそうなるのかと不思議に思われるでし
ょうが、普通にドボンと海に落ちました。にもかかわらず、パンツと靴
だけが濡れたのは、それしか身につけていなかったからです。先ほど、
イワンが船の周りを泳いでいたことを書きましたが、彼があまりに気持
ちよさそうに泳いでいるものだから、それに水もそんなに冷たくなさそ
うだったから、私たちも泳ぎたくなって、あのとき、次々と海に飛び込
んだのです。そのときからパンツ一枚。その後、上陸するということで、
その姿で靴を履いておりました。

 漁場調査員たちの活動はまだ続くのですが、これ以上書くと、社内で
収拾がつかなくなる。もう遅いでしょうか。

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