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さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第3葉(巻10・1966)
 風に散る はなたちばなを そでに受けて 君が御跡みあとと しのひつるかも

 風に散る花橘を袖に受けて、これはあなたが残した愛のしるしと、あなたのことを思ってしまう。

 作者は無名の女人ですが、いい歌です。「花橘」を実際に知っている者は泣けてくるほどです。タチバナは古くからこの列島に自生していた
柑橘類かんきつるいで、金色の実は小さくて酸っぱい。常緑の葉が好まれ街路樹にされたり、その花をでるため庭に植えられたりしました。「花橘」とは、花が咲いている時期のタチバナのこと。初夏、白く小さな花をいっぱい咲かせます。その橘の木のそばに立ち、そよ風に散る花びらをそっと袖で受けるというのは、視覚的にとても美しい描写です。でも、それだけではないのです。柑橘類の花には香りがある。甘酸っぱいほのかな香りが漂います。「風に散る花橘」という表現からは、その香りが匂い立っている。

 思えば「香り」とは不思議なもので、現代の科学技術をもってしても「香り」を記録することはできません。視覚は録画、聴覚は録音で再現できます。しかし嗅覚の保存は、今のところ、人間の脳が「記憶」としてなし得るのみです。匂いの記憶は相当強力であるらしく、その匂いにまつわる過去の出来事をありありと脳内によみがえらせる力がある。この歌がそうなのです。花橘の香りに包まれたとき、風に散る花びらに、彼女は思わず手を伸ばしてしまいました。その花が、その香りが、「君が
御跡みあと」であったからです。彼の思い出、彼の名残なごり、彼と愛し合ったしるし。花橘の香りはそういうものとして彼女の奥深くに保存されていた。その同じ香りが、今はもういない恋人を慕う女の姿を浮き彫りにしています。



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