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万葉恋歌
中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む
上野亮介
第4葉(巻11・2489)
橘
たちばな
の
下
もと
に
吾
わ
を立て
下枝
しづえ
取り 成らむや君と 問ひし子らはも
橘の木の下に私を立たせ、下の方の枝を手に取って、「実るでしょうか、あなた」と尋ねたあの子よ。
今度は男の歌です。これにも花橘がからんでいますが、前節の歌と対になっているのではありません。まったく別の恋人たちが主人公です。
「成らむや、君」(実るでしょうか、あなた)と尋ねたのは、彼の恋人であった人です。「子ら・はも」の「子ら」は恋人のこと。複数ではなく単数の「あの子」。「はも」は詠嘆を表し、昔を思い出したときのため息と思えばよい。「ああ、あの子よ」と。回想の中の彼女が手にしている橘の枝には、花が咲いていたはず。「実るでしょうか」と聞いているのですから、花がなければおかしい。彼女は咲き乱れている白い花を見せて、「この花は実るでしょうか」と尋ねたのです。その言葉には「この恋は実るでしょうか」という期待と不安がこめられています。二人がいた場所は花咲く橘の木の下です。柑橘系の香りが漂い、二人を包み込んでいました。それから何があったのか、二人は別れてしまいましたが、男がこの歌を詠んだとき、あのときと同じ香りに接していたにちがいありません。花橘の恋がいつも絵のように鮮やかなのは、その香りが、しあわせであった過去の光景を、心の網膜に映し出すからでしょう。
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