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万葉恋歌
中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む
上野亮介
第5葉(巻12・3075)
かくしてそ 人の死ぬといふ 藤波の ただ一目のみ 見し人ゆゑに
このように人間は死ぬということだ。藤波のように忘れがたくただ一目だけ見た人のために。(中西進博士の現代語訳)
恋い慕って死にそうだという心のありようは古今を問わず普遍的にあるようで、万葉集にも類歌が多いのですが、この一首を取り上げた理由は「藤波の」という一句にあります。そのひと言で「ただ一目のみ見し人」の姿を鮮やかに描写しきっている。その人を見た時、そこに藤の花があったのか、あるいはその人のたたずまいが藤波のようであったのか、いずれにせよ男にとっては、薄紫の上品な花が波打つように咲き乱れていたのです。相手がそういう女なら、男が死にそうになるのも無理はありません。
この歌を文章として見れば、文法的には「藤波の」が邪魔です。この言葉がこんなところに入る理屈が立ちません。しかし、この歌のリズムとイメージにとっては、なくてはならないのです。この一句を中西博士は「藤波のように忘れがたく」と言い換えられました。文章にすればそうとでもするしかないからです。しかし原歌をそのまま口ずさめば、藤波の女と死にそうな男の様子が、歌の調べに乗って鮮明に現れるでしょう。
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