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万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第6葉(巻15・3580)
 君が行く 海辺うみへの宿に 霧立たば が立ち嘆く いきと知りませ

 あなたが行く海辺の宿に霧が立てば、それは私が立ち嘆く息とお知りください。

 
遣新羅使けんしらぎしに加わった夫を見送る妻の歌です。大陸のとうに行くのが遣唐使けんとうし、朝鮮半島の新羅しらぎに行くのが遣新羅使けんしらぎしです。当時の船で海を渡る長旅は、大変な危険を伴いました。暴風雨で船が難破することもあれば、旅の途中で病に倒れることもあったのです。送り出す妻の心痛と不安はいかばかりであったでしょう。国家的重責を担う使節に夫が選ばれたことを喜ぶ気分になどなれません。でも、彼女は、「切ない」とか「悲しい」とか、そんなありふれた言葉も使わない。

 君が行く海辺の宿に霧立たば 吾が立ち嘆く息と知りませ

 海辺の霧と自分の吐息、この具象的な言葉が、夫の旅路と安否を気遣う自分を対比させつつ結びつけ、流れるような調べとあいまって、実に美しい詩になっています。その調べは涙の流れに重なります。彼女は泣いているのです。でも、泣き伏しているのではありません。彼女は立っている。それは見送るときの姿であり、帰りを待ちわびる姿でもあるのです。旅の途中、海辺や海上に霧が現れるたびに、妻の可愛い唇から洩れる悲しみの息づかいを思い出し、男の目に慕情の涙がにじんだことでしょう。



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