第30葉(巻12・2875)
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天地に すこし至らぬ 大夫と 思ひしわれや 雄心も無き |
天地の大きさには少し足りないとはいえ、立派な男子と思っていた私であるが、雄々しい心もなくなったのだろうか。
万葉時代の男は、化粧や香や華美な服装に凝った平安王朝の男たちとちがい、質実剛健、たくましい精神にあふれていたことになっています。本人たちもそう思っていたようで、この歌の出だしなどは実に気宇壮大です。天地の大きさには多少足りないと謙遜しているのではありません。それ以上大きいものがない天地を引き合いに出し、わが心はそれほど大きいと自慢しているのです。「天地と同じぐらい大きい」と言わずに「ちょっと足りないけど」と一歩引くところが可笑しいというか可愛いというか。まあこれは愛嬌として、それほど雄大な男子であると自負していたのに、突然しおれてしまった。これはいったいどうしたことか。
実はこれ、恋の告白なのです。天にも届かんばかりの剛毅な“ますらを”が、なんと、一人のかよわい女に心奪われ、ため息をついたり、涙ぐんだり、なさけない姿で右往左往している。「雄心も無き」とは、そういうことです。しかし、どうですか、恋に落ちた自分をこのように表現するとは、いかにも万葉の“ますらを”ですね。
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【古語散策】
天地にすこし至らぬ大夫と 思ひしわれや雄心も無き
この歌にも「係り結びの法則」があります。「われや雄心も無き」の部分です。本来は「われは雄心も無し」ですが、疑問語の「や」によって形容詞が連体形の「無き」に変わっている。雄々しい心がなくなったのだろうか、という意味です。
疑問の助詞「や」は、現代日本語では消滅していて、その痕跡を見つけるのもむずかしいのですが、無理して探せば、それらしき表現がないでもない。
関西人が、見知らぬ物体を指して、「これ何や」と問うその言葉は、王朝の姫君が「これや何」と問う奥ゆかしい言葉に似ています。関西弁では「や」の位置が下に移っていますが、時代が下るにしたがって疑問を表す助詞は文末に移動する傾向がある。「これや何」が「これ何や」になったのも不思議ではありません。
関西人の「これ何や」が古語の最後の姿だとすれば、四国地方にも古語の残照がある。「これ何や」と問う関西人に対して、四国人は「これアイスクリンぞ」と答えるのです。古語なら「これぞアイスクリン」と言うべきところを、「ぞ」がまたまた下に移動して、「これアイスクリンぞ」という四国方言になりました。今では「これ何やねん」とか「これアイスクリンぞね」とか、シッポに余計なものがくっつきます。
いえ、何の学問的根拠もありません。全部冗談です。
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