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万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第31葉(巻11・2376)

 健男ますらをの うつし心も われは無し 夜昼よるひるといはず 恋ひしわたれば

 “ますらを”の歌をもうひとつ。歌意は、健児の心も今の私にはない、夜昼といわず彼女に恋い焦がれてばかりで。

 “ますらを”は「大夫」と書いたり「健男」と書いたり「益荒男」と書いたりしますが、いずれも当て字で意味は同じ、「立派な男」のことです。

 前節の
は「雄心をごころ」(雄々しい心)を失いました。今回のは「うつし心」(現実の心)がなくなった。つまり、もう正気ではない。重症です。夜といわず昼といわず、彼女のことだけを思い続けている。何も手につかない。いつも上の空。困ったものです。

 男子たる者、恋などにフラフラしてはならない。それが男のあるべき姿。千数百年前もそう思われていたのでしょうか。必ずしもそうではないようです。男といえども恋に落ちると目も当てられない。勇ましい日本男児は特にそう。“ますらを”が恋に溺れてなさけない姿をさらすというのは、別に特別な光景というわけではありません。当時の常套的な構図というか、まことにありふれた描写なのです。いかに“ますらを”といえども恋にはかなわない。それが万葉の常識です。「それでいいのだ」という世間の了解もある。彼らが“ますらを”の歌を詠んだのは、メロメロになって男として恥ずかしいという思いからではなく、恋心がそれほど深いと言いたいがためです。「男たるもの、かくあるべし」という男の美学が当時もあったけれど、少なくとも恋に乱れるのは男の恥ではなかった。後の世で窮屈な倫理観念が恋を縛ったことを思えば、まことに正直な時代だと言えますね。


【古語散策】

 
健男ますらをうつし心もわれは無し 夜昼よるひるといはず恋ひしわたれば

 そもそも「
健男ますらをうつし心」とは何か。万葉の男の美学とはどういうものであったのか。それを推測させる歌を挙げておきます。

 
千万ちよろずいくさなりともことげせず 取りてぬべきをのことそ思ふ (巻6・972)
(相手が千万の軍勢であろうとも、あなたはゴチャゴチャ言わずにめて来る男だと思います)


 をのこやもむなしくあるべき 万代よろづよに 語りぐべき名は立てずして (巻6・978)
(男子たるもの、むなしくあってよいものか。万代の後世に語り継ぐべき名を立てずして)

 不言実行で
いくさに勝つとか、後世に名を残すといったことが語られています。恋とはまったく別のカテゴリーの話です。万葉の男の美学は、恋とは別のところにあった、ということがわかりますね。



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