第36葉(巻12・3116)
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わが故に いたくな侘びそ 後遂に 逢はじと言ひし こともあらなくに |
私ゆえにそんなに落ち込まないでくださいな。終生絶対逢わないと言ったわけでもありませんのに。
何なんでしょう、もってまわったこの言い方は。実は人妻に懸想した男がいて、「あなたは私の命です、だのにあなたは人妻、ああ悲しい」と恋歌を寄こした。言い寄られた人妻は、その男にこの歌を返したのです。男の心境は察して余りあります。ピシャッとはねつけられるとか、「逢ってもいいわ」とサインを送られるとか、そういうことなら話はわかる。ところが、「終生(後)」「絶対に(遂に)」「逢わない(逢はじ)」「と言った(と言ひし)」わけでもない? 頭の中がゴチャゴチャになりそうです。でも、この歌によって男が諦めることはなかったでしょう。彼女の思うツボ。こんな歌は考えて詠めるものではありません。自然にすらすら出てきたにちがいない。作為なき思慮深さを智慧といいます。女の智慧というのはおそろしいですな。
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【古語散策】
わが故にいたくな侘びそ 後遂に 逢はじと言ひしこともあらなくに
「な侘びそ」は禁止を表します。侘びてはいけない。古語特有の言い回しです。以下も「な〜そ」の例です。
後も逢はむ吾にな恋ひそと妹は言へど 恋ふる間に年は経につつ(巻12・2847)
(「後で逢いましょう、だから私のことで苦しまないで」と彼女は言うが、苦しんでいる間にどんどん年月が過ぎていってる)
ぬばたまのこの夜な明けそ 赤らひく 朝行く君を待たば苦しも(巻11・2389)
(漆黒の夜は明けないで。赤く染まる朝に行ってしまうあなたをまた待つのが苦しいの)
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