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万葉恋歌
中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む
上野亮介
第37葉(巻2・116)
人言
ひとごと
を
繁
しげ
み
言
こち
痛
た
み
己
おの
が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る
人の噂があまりに多くうるさいので、自分が生きてきたこの世でいまだ一度もしたことのない夜明けの川を渡ります。
この歌には、背景となる史実があります。作者は
但馬
たじまの
皇女
ひめみこ
。彼女の夫は
高市
たけちの
皇子
みこ
。
壬申
じんしん
の乱で若くして軍を統率し勝利に導いた皇族武将であり、太政大臣という廟堂の最高位に昇りつめ、皇太子の地位にも就いた英傑です。彼女がこの皇子の妻になったのは、皇子が三十代半ばから後半、彼女が十代後半のころであったと思われます。年齢は二十ほど離れていますが、夫の家柄、才能とも申し分なく、過去も現在も未来も輝いています。にもかかわらず、彼女は他の男のもとへ走るのです。相手は
穂積
ほずみの
皇子
みこ
。史書では影が薄く、事績も人柄もよくわかっていません。この穂積皇子と彼女の恋が始まったは、彼女が二十歳前後のころでしょうか。穂積皇子の年齢も彼女と同じぐらいであったようです。二人の度重なる密会は人々の知るところとなり、好奇に満ちた噂が内外に広がりました。その嵐のような噂の中、穂積皇子が自分を訪れるのは困難であろうからと、あえて自分の方から穂積皇子に逢いに行くのです。そのときの歌が、
人言
ひとごと
を
繁
しげ
み
言
こち
痛
た
み
己
おの
が世に いまだ渡らぬ朝川渡る
「朝川渡る」は、何かの決意表明みたいな暗喩ではないと思います。彼女は実際に夜明けの川を渡った。高貴な皇女がするはずのないことを彼女はした。そのような皇女の恋が七世紀にあったことを、この歌は私たちに伝えているのです。
それから十余年の後、但馬皇女は三十代半ばで亡くなります。そのとき穂積皇子が詠んだとされる歌が万葉集に残されています。
降る雪は あはにな降りそ
吉隠
よなばり
の
猪養
いかひ
の岡の
寒
さむ
からまくに (巻2・203)
(降る雪はそんなに多く降らないでくれ。吉隠の猪養の岡が寒いだろうから)
「吉隠の猪養の岡」は地名です。但馬皇女はそこに葬られたのです。
【古語散策】
人言
ひとごと
を
繁
しげ
み
言
こち
痛
た
み
己
おの
が世に いまだ渡らぬ朝川渡る
「人言を繁
み
」は「人の噂が多いので」。「言痛
み
」は「噂が煩わしいので」。この「み」は、原因や理由を表します。この言い方は現代日本語ではもうなくなっていますが、非常に便利かつ簡潔な表現方法で、古歌にはよく出てきます。たとえば次の歌などは、いずれも万葉集中の名歌です。
若の浦に
潮
しほ
満ち来れば
潟
かた
を
無
な
み
葦辺
あしへ
をさして
鶴
たづ
鳴き渡る (巻6・919)
(若の浦に潮満ち来れば干潟が無くなるので、葦辺を指して鶴が鳴き渡ってゆく)
采女
うねめ
の
袖
そで
吹きかへす
明日香
あすか
風
かぜ
都
みやこ
を
遠
とほ
み
いたづらに吹く (巻1・51)
(美しい女官の袖を吹き返していた明日香風は今は都が遠いので
空
むな
しく吹いている)
春の野にすみれ摘みにと
来
こ
しわれそ 野をなつかし
み
一夜
ひとよ
寝
ね
にける(巻8・1424)
(春の野にスミレを摘みに来た私であるが野がなつかしいので一夜寝てしまった)
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