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万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第38葉(巻1・20 - 21)

 あかねさす 紫野むらさきの行き 標野しめの行き 野守のもりは見ずや 君がそで振る
 
紫草むらさきの にほへるいもを 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも

 ここに揚げた一対の歌は、額田ぬかたのおおきみ大海人おおあまの皇子みこの、あまりにも有名な贈答歌。額田王は天智てんじ天皇の妻にして万葉屈指の女流歌人。対する大海人皇子は皇太弟。つまり天智天皇の弟で、次の天皇になるべき人です。それがこの時点の二人の立場です。しかし、以前は、この二人は愛し合う仲でした。二人の間には皇女が産まれています。その後、いつのころか、またどういういきさつがあったのか、天智天皇が彼女をわがものにしてしまうのです。この兄弟は後に対立し、古代最大の動乱・壬申じんしんの乱へとつながります。そんな事情をもつ二人の愛の唱和となれば、古来さまざまな解釈がなされてきたのも当然です。宴席の戯歌ざれうたという説もあります。今となっては真相はわかりませんから、万葉集が伝える情景をそのまますなおに鑑賞してみましょう。

 あかねさす 
紫野むらさきの行き 標野しめの行き 野守のもりは見ずや 君がそで振る
(あかねさす紫野行き標野行き、野守は見ないでしょうか、あなたが袖を振るのを)

 「あかねさす紫野」という響きがもたらす開放感と色彩感。「紫野行き、標野行き」と畳みかける躍動感。「野守は見ずや」の緊張感。「君が袖振る」という描写にこめられた複雑な思い。足らざるものも余計なものも何ひとつない。緊密に連なった言葉のすべてが、そのときの光景と作者の心の動きを担っています。まさしく出色の名歌です。

 この歌がいつどこで詠まれかを万葉集は注記しています。それを踏まえて、もう一度、歌を味わってみましょう。

 初夏、天智天皇が盛大な狩りを催しました。額田王や大海人皇子たちも随行しました。場所は琵琶湖近くの蒲生がもうです。そこを「紫野」と呼んだのは、染料や薬用に使う紫草の群生地であったからです。そういう大切な丘陵には一般人の立入を禁止する
しるしが立ててあります。だから「標野」ともいいます。「紫野」も「標野」も同じ丘陵の別の呼び名です。男たちは騎馬で狩りをし、女たちは野の草や花を摘んで遊びます。額田王がふと見ると、大海人皇子が自分に向かって遠くから袖を振っているではありませんか。これは投げキスみたいなもの。万葉人まんようびとは投げキスはしません。代わりに袖を振る。奥ゆかしいですね。「紫野行き、標野行き」と繰り返していますから、場所が移っても袖を何度も振ったのでしょう。しかし、番人がいます。「標野」を見張る衛兵か、あるいは天智天皇のことか、それが「野守」です。「いけません、野守が見るではありませんか」

 これに対して大海人皇子は単刀直入です。

 
紫草むらさきの にほへるいもを 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
 (紫匂うあなたが憎かったら、人妻なのに恋い慕ったりしようか)

 大海人皇子は額田王のことを「
いも」と呼んでいます。「妹」とは愛する女への呼称。しかも「紫草むらさきの匂へるいも」です。彼女の高貴な美しさをズバリ言い表すと同時に、「紫野行き標野行き」の歌に見事に和しているのです。一気に詠み下した歌でありながら、二人の過去と現在を思えば「人妻ゆゑに」という言葉が重く響きます。

 この唱和だけを見れば、二人は非常に危険な関係にある。「いかに何でもそれは・・・・」と思った人が唱えたのが「宴席の戯歌」説なのかもしれませんね。



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