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さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第43葉(巻15・3778)

 白妙しろたへの 衣手ころもでを 取り持ちて いはへわが背子せこ ただに逢ふまでに

 白妙しろたえの私の衣を手に取って、祈りなさい、わが夫よ、じかに逢うときまで。

 万葉集に残る
狭野さのの茅上ちがみの娘子をとめ の最後の歌です。
 彼女は流刑地の
中臣なかとみの宅守やかもりに白い布(衣手ころもで)を送りました。自分で縫った衣であったかもしれません。そして、この歌をつけたのです。
 夫婦はお互いを「
いも」「」と呼び合いました。「背子」はさらに親愛をこめた表現です。許されぬ恋ゆえに会えない境遇にありながら、彼女の心は完全に妻になりきっています。妻が夫にしてやるように、彼女は衣を整えてやりました。あるいは彼女が贈った衣とは、自分の身代わりという意味で、彼女自身のものであったかもしれません。この細やかな愛情とともに、彼女は失意の夫を励まします。祈りなさいという言葉は、希望とともに語られます。「必ず逢える日が来ます、それまでは、この衣を私だと思ってください」と言外に語りかけている。この短い歌の中に、これだけたくさんの思いがこもっている。恋い慕う心の深さというだけでは足りません。これほど強靱な恋心は他に類を見ない。同時に、その歌才に驚嘆せざるを得ないのです。
 彼女の女官としての身分は
女嬬にょじゅにすぎません。宮中で雑用をする係です。本来なら歴史に名を残すことのない卑官です。しかし、遙か天平てんぴょうの昔、狭野茅上娘子という女人がいたということを、そのたたずまいや息づかいとともに、私たちは知りました。未来の人々もまたそうです。万葉集は、狭野茅上娘子とその恋を、永遠に語り続けるのです。



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