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さくら野歌壇
万葉恋歌
中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む
上野亮介
第48葉 (巻11・2570)
かくのみし
恋
こ
ひば死ぬべみ たらちねの 母にも告げつ
止
や
まず
通
かよ
はせ
こんなにも恋心を募らせていれば、きっと死んでしまうでしょうから、あなたのことを母に告げました、だから途絶えることなく私のもとにかよって来てください。
彼女はついに母親に打ち明けて同意を取りつけたのです。「止まず通はせ」という言葉に、娘の晴れ晴れとした心が見て取れます。
「
馬柵
うませ
越し麦
食
は
む
駒
こま
のはつはつに
新肌
にひはだ
触れし
児
こ
ろし
愛
かな
しも」からここまでの一連の歌の、恋の当事者は同一ではありません。しかし、共通点がある。恋する二人の間に、娘の母親が立ちはだかっていることです。二人の恋を邪魔するお母さんこそが、これらの歌の隠れた主人公なのです。
母親が娘の結婚相手を厳しく吟味するのは、娘に幸せになってほしいからです。お母さんは男のことでは苦労しているのです。自身の経験だけではありません。女同士のおしゃべりや噂話を通して、結婚相手をまちがえたときの苦しみを知り抜いています。一時の恋にうつつをぬかす小娘とはちがう。男を見る目が肥えている。世間というものを知っている。わが子を慕ってくれる若者がいるのはお母さんとしても嬉しいのだけれども、いろいろと気になるのです。「あの青年は働き者ではない、貧乏で苦労しそうだわ」とか、「ちょっと調子がよすぎる、浮気するんじゃないかしら」とか、「もうちょっと身分が高ければねえ」とか、「なにもあんな不細工な男が来なくったっていいじゃない、似た孫が出来たら大変だわ」とか、何かと注文が多くなる。でも、愛する娘が死にそうになって「母にも告げつ」という事態にまで立ち至れば、そこはお母さん、無慈悲なはずがありません。そのときのお母さんは、自分が若かったころのことを思い出し、苦笑していたかもしれませんね。
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