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さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第51葉 (巻3・432)

 われも見つ 人にも告げむ 葛飾かづしかの が 奥城処おくつきどころ

 私は見た。人にも言おう。葛飾かつしかの墓のことを。

 今回も伝説の美女です。万葉の代表的歌人、
山部赤人やまべのあかひと東国とうごくを旅したときの歌。「葛飾の真間」は、現在の千葉県市川市真間付近です。そこに絶世の美女がいた。また千葉県です。美人の産地らしい。
 山辺赤人の時代、
彼女はすでになく、彼が見たのは彼女の墓所でした。今でも神社関係の人は墓のことを「おく」と言います。
 彼女の名は
。「真間の手児名」という名は、みやこにまで鳴り響いていました。だから山部赤人は、それが墓であっても、「私もついに見たぞ」と喜び、「人にも知らせたい」と無邪気に歌うのです。
 手児名とは、どういう人であったのか。万葉集には彼女のことに触れた歌がこの歌も含めて長歌短歌合わせて七首もあります。それから推測するに、彼女の出自は上層ではなく下層。裕福ではなく貧乏。着るものもみすぼらしく、
くつもはいていなかった。そして、よく働いた。当時の田舎の、典型的な庶民の娘であるその人が、都のお姫さまをもしのぐ美貌と魅力をそなえていた。と、こういうことであるらしい。しかし美人薄命。彼女は早く世を去ります。処女のまま死んだとも言われ、一人の若者と結ばれたとも言われています。いずれにせよ若々しくきれいなままで姿を消した。これが手児名伝説の骨格部分です。
 仕方ありませんね。男というのは困ったもので、こういうのに弱い。万葉の男どもが「テコナ、テコナ」と騒いだのがわかります。その人の墓所に立てば、
万葉人まんようびとでなくても、たとえば筆者なども、りし日の彼女の姿を幻視しそうです。



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