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さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第55葉 (巻14・3427)

 つくなる にほふゆゑに 陸奥みちのくの 少女をとめの ひしひも解く 

 築紫で出会った匂い立つようないい女ゆえに、陸奥の恋人が結んでくれた紐を解く。

 陸奥は現在の東北地方です。そこの男が九州の築紫へ行きました。気の遠くなるような旅です。仕事で行ったのでしょう。出発に当たって、恋人が紐を結んでくれました。旅の安全を祈り、遠く離れても変わらぬ愛を誓い合ったのです。「
」は万葉仮名の表記です。「カトリ」という音を表しているだけです。そういう名前の里があったのか、あるいは香取神社に縁のある少女であったのか、きっと純朴な娘さんであったことでしょう。ところが、築紫に着いてみれば、おそろしく華やかな街ではありませんか。築紫にはざいがあります。そこは「とほ朝廷みかど」と呼ばれるほどの都会です。東北の田舎から出てきた青年は度肝を抜かれたにちがいない。女もあか抜けて洗練されています。その「つくなるにほ」ゆえに、彼はあっさり「少女をとめ」が結んでくれた紐を解いてしまうのです。紐を解くという行為は、その紐を結んでくれた女との誓いを破ることを意味し、また衣を脱いで築紫の女と一緒に寝たことをも暗示しています。いけませんな。「木綿のハンカチーフ」みたいな話です。
 これが普通の和歌であれば、たとえば
みやこびとの歌であれば、涙を流して陸奥の女と惜別する歌がまずあって、それとは別に築紫の女との恋が歌われたことでしょう。普通は二つの恋を別々に歌います。それをひとつの歌の中に放り込んだ。そのことによって、身勝手な自分を弁解したり隠したりすることもなく、まことにリアルに男の行動を描いている。東歌ならではの率直さと言わねばなりません。



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