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さくら野歌壇
万葉恋歌
中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む
上野亮介
第65葉 (巻20・4369)
筑
つく
波
ば
嶺
ね
の さ
百
ゆ
合
る
の花の
夜
ゆ
床
とこ
にも
愛
かな
しけ
妹
いも
そ 昼も
愛
かな
しけ
筑波嶺の小百合の花のような、夜の床の妻が
愛
いと
おしい、昼も
愛
いと
おしい。
筑波山が詠み込まれていることでわかる通り、これも
常陸
ひたち
国出身の
防人
さきもり
の歌です。彼が住む常陸国でこの歌が詠まれたのなら、飽きることのない妻への思いを吐露した恋歌になります。しかし、この歌も
難波
なにわ
で歌われました。
故郷
ふるさと
で突然かき集められ、追い立てられるように陸路はるばる難波までたどりつき、ここから船に乗せられ、さらに遠い九州へと連れていかれるのです。そのことを知った上でこの歌に戻れば、単なる恋歌でないことがわかる。夜も昼も愛おしい妻が、今は夜も昼もいないのです。その言葉に、その調子に、歌全体に、ただひたすら妻を愛する心が流れている。愛情が強いだけに、むしろ悲痛です。
秀歌とされるこの歌は、次の歌と一緒によく紹介されます。作者が同じだからです。
霰
あられ
降り
鹿島
かしま
の神を祈りつつ
皇
すめら
御軍
みくさ
に
我
われ
は
来
き
にしを (巻20・4370)
(霰降る中、鹿島神宮の神に祈りつつ、皇軍の軍列に私はやってきた)
これが「筑波嶺の小百合の花」の隣に並んでいる。泣けてきます。
作者は
大舎人部
おおとねりべの
千文
ちふみ
。
【古語散策】
筑
つく
波
ば
嶺
ね
の さ
百
ゆ
合
る
の花の
夜
ゆ
床
とこ
にも
愛
かな
しけ
妹
いも
そ 昼も
愛
かな
しけ
霰
あられ
降り
鹿島
かしま
の神を祈りつつ
皇
すめら
御軍
みくさ
に
我
われ
は
来
き
にしを
「筑波嶺の小百合」の歌は、「
百
ゆ
合
り
」を「ゆる」と言ったり、「
夜
よ
床
とこ
」を「ゆとこ」と発音する東国
訛
なま
りがあります。下句も標準語なら「
愛
かな
しき
妹
いも
そ昼も
愛
かな
しき」となるところです。それに対して「霰降り」は、全部標準語です。ちょっと公的な気分で歌ったのでしょうね。
この二首が生まれた経緯ですが、防人たちが難波の港に集められたとき「歌を詠め」と命令が下りました。指示を出したのは
大伴
おおともの
家持
やかもち
です。彼は秀歌を集めていました。防人たちの歌は取捨選択され、家持の目にかなった歌だけが選び出されます。それが「防人の歌」として万葉集に収録されたのです。防人たちにしてみれば、突然「歌を詠め」と言われても、勇ましい歌なんか出てこない。ただただ故郷がなつかしい。置いてきた妻が恋しい。父のことも母のことも気にかかる。彼らが詠んだ歌のほとんどは、望郷歌であり恋歌です。そんな中で、ときおり、「霰降り」のような勇ましい歌が出てきます。この作者は、偽らざる心情を「筑波嶺の」と切々と故郷の言葉で歌い上げる一方、出陣の歌を「霰降り」と標準語で格調高く歌った。よほど歌才があったのでしょう。どちらも文句なしにいい歌です。家持が二首とも選んだのは当然と言わなければなりません。
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