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さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第66葉 (巻14・3481)

 ありきぬの さゑさゑしづみ 家のいもに 物はずにて 思ひ苦しも

 ありきぬのさゑさゑしづみ、妻に別れの言葉を言わずに来てしまい、胸が苦しいよ。

 「さゑさゑしづみ」とは美しい表現ですね。さやさや鳴るのを静めて、という風な意味でしょうか。「あり衣の」は枕詞ですが、絹のようなサラサラした布を連想すればよい。さやさやという衣ずれの音。それは美しい妻の不安気な様子が心に浮かんでくることの比喩かもしれません。それを静めるとは、作者の心のざわめきを押さえこむことを言っているのでしょうか。あるいは「しづむ」とは、「静める」ではなく「沈む」ことかもしれません。作者の心が沈み込んでいることの比喩とも考えられます。「あり衣のさゑさゑしづみ」が具体的に何を指しているのかはわからないのですが、作者が抱いているイメージはよく伝わってきます。そんな心境になるのは、妻に言葉をかけずに旅立ったからです。防人徴発の仕方は、ときにきわめて突然かつ強引でした。彼は別れの言葉を言う
ひまもないほど慌ただしく防人の旅路についたのです。「思ひ苦しも」という独白が悲しく沈鬱ちんうつです。



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