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万葉恋歌
中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む
上野亮介
第67葉 (巻20・4343)
吾
わ
ろ旅は 旅と
思
おめ
ほど
家
いひ
にして
子
こ
持
め
ち
痩
や
すらむ わが
妻
み
かなしも
私の旅は、旅と思ってがまんの仕様もあるが、家にいて子どもを抱えて痩せているだろう妻が、かなしいよ。(中西進博士の訳)
東国の男は自分の苦難はがまんできても、残してきた妻子を思うと泣けてくるのです。ただし、作者の思いが「自分なしで妻子がどうやって食べていくのか」というところにあるとは必ずしも言えません。当時の女にはそれなりに経済力があったからです。女は財産を持っていました。家屋や敷地は母から娘に相続されました。それだけではありません。当時のもっとも基本的な財産は田畑です。その田畑が、すべての女子にも各五百坪ほど、国から支給されていました。夫がいなくても一応食べてはいけるのです。もちろん女手ひとつで農作業ができるわけではありません。男手も借りたことでしょう。夫も手伝ったはず。夫と家計を共にすることもあったでしょう。夫がいなくなることは、大きな経済的打撃にはちがいありませんが、しかし、致命的な打撃ではなかったのです。夫の不在ゆえに妻が貧乏で痩せるという事態もあり得るけれども、彼女が痩せるのは夫をひたすら恋い慕うゆえかもしれません。作者の心にあるのは、妻の経済状態への不安もさることながら、自分を愛してくれている妻を思うときの
愛
いと
しさであり悲しさでもあるのです。この歌は深い精神性を有しています。
この歌の「かなし」は、漢字で書くとすれば「
愛
かな
し」なのか「
悲
かな
し」なのか。作者の心は、限りなく「悲し」に近い。同じ東国の歌でも、おおらかな恋を「
愛
かな
し」とあけすけに歌った東歌と、悲しみにつつまれた防人の歌と、その歌調が大きく異なることが、私たちの胸をしめつけます。
作者の名は、
玉作部
たまつくりべの
広目
ひろめ
。駿河国の人です。「
吾
わ
ろ旅」「
思
おめ
ほど」「
家
いひ
」「
子
こ
持
め
ち」「わが
妻
み
」などは当時の駿河方言。
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