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さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第72葉 (巻20・4346)

 父母ちちははが かしらかきで くあれて 言ひし言葉けとばぜ 忘れかねつる 

 
防人さきもりになるのは恋人や妻がいる男ばかりではありません。まだ幼さの残る独身の若者もいました。彼らの望郷の思いは父や母に向けられます。そんな歌も紹介しておきましょう。

 歌意は、父と母が頭をかき撫で「幸くあれ」(無事でいなさい)と言った言葉が忘れられない。

 故郷を発つときの光景が簡潔に語られています。簡潔な分だけ鮮やかです。両親にとってみれば、彼はまだ子どもなのです。頭をかき撫でたのはたぶん母親でしょう。「幸くあれ」と言ったのは父親かもしれません。母は抱きしめることしかできず、父はそれしか言えなかった。そして子は、そのことが忘れられない。激しく心を打つ歌です。千年経とうが二千年経とうが変わることのない親子の
きずながここにある。同時に、防人の制度が東国の親子にもたらした無惨で切ない苦しみを伝えて余りあります。
 作者の名は、
丈部はせつかべの稲麿いなまろ。駿河国の少年です。


【古語散策】

 
父母ちちははが かしらかきで くあれて 言ひし言葉けとばぜ 忘れかねつる

 この歌を標準語に直すと、

 
父母ちちははが かしらかきで さきくあれと 言ひし言葉ことばぞ 忘れかねつる

 元の歌とどちらがいいですか。意味は標準語の方が通りやすいですね。歌調もなめらかです。でも、元の方言には
なまの息吹があるのに、標準語にはそれがない。並べて見れば、方言の方が心に響きます。これは当たり前なのです。自分の土地の言葉で、すなわち母語で歌った方が、生の心がよく伝わるに決まっています。
 そもそも「方言」と書くと、あたかも言語として劣っているかのような印象がつきまといますが、言語自体に優劣があるわけではない。たとえば、英語、ドイツ語、フランス語などは、それぞれが互いの方言みたいなもの。それらがみんな「標準語」というお面をかぶっているのは、それぞれが別々の国家を建てたから。もしローマ帝国の欧州統治が末永く続いていたならば、ラテン語だけが標準語で、あとの言語は全部方言です。そのような標準語が今の欧州にあったとしても、パリの娘が恋を語るときは、ラテン語よりパリの土着語(フランス語)の方が心にしみる。同様に、東国の若者が父母を思う気持ちは、東国方言の方がよく表せる。方言を理解できない者のために標準語に置き換えるのはやむを得ないこととはいえ、意味がわかるようになる代わりに言葉の息吹が薄れるのもまたやむを得ないことなのです。



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