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さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第73葉 (巻20・4366)

 常陸ひたちさし かむかりもが が恋を しるしてつけて いもに知らせむ 

 故郷の常陸を指して飛び行く雁がいてほしい。恋い焦がれる私の心を書きつけて妻に知らせたいから。

 作者は東の空を見上げて歌ったのでしょう。鳥よ、この思いをどうか伝えてくれと。この歌を詠んだとき、彼が実際に空を見上げていたかどうかは問題ではありません。心はきっとそうしていた。ここは
難波なにわです。船出が近づいているのです。わが身はさらに西へ行ってしまうのです。“船に乗る”そのことは東国の者たちにとって、故郷との完全な別れに近い意味をもったことでしょう。あきらめと激しい慕情が交叉する中で生まれた歌です。
 作者の名は、
物部もののべの道足みちたり

 「
防人さきもりの歌」と呼ばれる歌群は、その大部分が、難波の港で、九州への出陣前に詠まれたものです。九州に何をしに行くのか。国境防衛です。防人の制度は、朝鮮半島動乱のとき始まりました。七世紀、大陸にとうという大帝国が出現し、周辺諸国が揺れ始めます。当時の朝鮮半島は三国(新羅しらぎ百済くだら高句麗こうくり)に分かれて互いに争っていましたが、このうち新羅が唐の軍隊を半島に引き入れたのです。唐と新羅に攻められて百済は陥落しました。百済復興の支援要請を受けて渡海した日本軍は、六六三年、白村江はくすきのえで唐の大軍に敗れました。勢いに乗った唐と新羅の連合軍がいつ日本に攻めてくるかわからない、その緊迫した情勢の中、九州北岸と壱岐・対馬の防御が急務になったのです。そのため東国の屈強な男たちが集められました。九州防衛は、それをやらなければなぬ理由があったのですが、なにしろ時は七世紀、東国の人々に「日本国」や「日本国民」という意識などありません。わけがわからないまま連れていかれたというのが実感であり実態でもあった。万葉集に登場する防人の歌は、その多くが七五五年のもの。つまり防人の発足からおよそ百年後の防人たちの歌です。国際情勢の危機はすでに去っていましたが、防人の制度は続いていたのです。



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