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万葉恋歌
中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む
上野亮介
第76葉 (巻13・3311)
隠口
こもりく
の
泊瀬
はつせ
小国
をくに
に 妻しあれば 石は
履
ふ
めども なほし
来
き
にけり
山に隠れた泊瀬の里に妻がいるので、石ころだらけの険しい道だが、それでも私はやってきた。
当時は通い婚です。男が女のもとに通う。泊瀬はずいぶん遠かったでしょう。山に分け入り、川を踏み越えて行く。そんなところに妻がいるのは男にとって大変ですが、なんのその、「石は踏めどもなほし来にけり」です。立派な男ですね。実におおらかな歌です。
この歌は
反歌
はんか
といって、長歌の後につける短歌です。つまり前段に長歌がある。その長歌を見てみましょう。ちょっと事情が変わってくる。
隠口
こもりく
の
泊瀬
はつせ
の国に
さ
結婚
よばひ
に わが
来
きた
れば
たな
曇
くも
り 雪は降り
来
く
さ
曇
くも
り 雨は降り
来
く
野
の
つ
鳥
とり
雉
きぎし
はとよむ
家つ鳥
鶏
かけ
も鳴く
さ
夜
よ
は明けぬ
入
い
りてかつ寝む この戸開かせ
(巻13・3310)
山深い泊瀬まで
夜
よ
這
ば
いにやってきたら、空がかき曇り雪が降ってきた。さらに曇って雨が降ってきた。野の鳥であるキジが騒いでいたが、家の鳥であるニワトリが鳴きだした。ああ夜が明けるのだ。あなたの家に入って寝たい。お願いだから戸を開けてください。
この男、はるばる来たのに入れてもらえないのです。雪に
凍
こご
え、
雨
に濡れて夜を明かした。かわいそうに。この長歌の後ろに、先の「
隠口
こもりく
の
泊瀬
はつせ
小国
をくに
に妻しあれば石は
履
ふ
めどもなほし
来
き
にけり」がある。事情がわかってみれば、この短歌は、おおらかというよりも、「せっかく険しい道をやってきたのに」という恨みがましい感じになりますね。でも、女はなぜ男を家に入れてやらないのでしょう。その理由は、女が返した次節の歌でわかります。
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