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さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第78葉 (巻3・251)

 淡路あはじの 野島の崎の 浜風に いもが結びし ひも吹きかへす

 淡路島の、野島の岬の浜風に身をさらしていると、妻が結んでくれた紐を風が吹き返す。

 
柿本かきのもとの人麿ひとまろの歌です。この歌は旅の歌として収録されています。作者は船旅の途中です。淡路島の北端にある野島の岬を通ったときの歌。淡路島―野島―岬と続く地名の連なりが、旅情あふれる瀬戸内海の景色を呼び出しています。それが「浜風」へと続くところがいいですね。景色が急に息吹をもつのです。さらに続けて「妹が結びし紐」が現れます。作者が抱いている旅愁が妻に行き着く。作者の妻は、出発のとき、当時の風習として、旅の安全を祈って衣の紐を結んでくれたのです。旅情の歌は、ここにおいて、慕情の歌へと転じます。その紐を浜風が吹き返す。これは景色です。歌は景色に戻って終わります。でも、この景色は、もう単なる景色ではありません。作者の胸の内がわかったからです。旅の風景を淡々と描きながら、妻への限りない思いを詠み込んだ名歌です。

 ところで、「妹が結びし紐」とは、風に
ひるがえっているのですから、上着の紐だと思われます。しかし、旅の途中、上着はよく脱いだはず。そのつど「妹が結びし紐」を解いたのでしょうか。それはまずい。せっかくのまじないが効かなくなる。この紐は上着を締める紐ではない。それとは別に上着のどこかに付けたのでしょう。機能上は無くてもよい紐を、上着に縫いつけて、呪文でも唱えながら、あるいは黙って心を集中して、決して解けないようなやり方でそれを結んだのかもしれません。たしかなところはよくわからないのですが、妻が女神となって旅の夫を守護する印であったような気がします。


【古語散策】

 
淡路あはじの 野島の崎の浜風に いもが結びしひも吹きかへす

 「淡路の野島の崎の」とワープロで打っていると、《「の」の連続》とパソコンに注意されました。筆者のパソコンは、というか、ワープロソフトでしょうけど、万葉の大歌人を何と心得ておるのか。
 「の」という助詞は、現代語でもそうですが、意味が多岐にわたっています。「淡路の野島の崎の浜風」を厳密な言葉に置き換えると、「淡路に属する野島にある岬における浜風」。「の」の意味が三つとも微妙に異なる。日本語はそれらを全部「の」で表すのであって、「の」が連続していると見るのは皮相な見方です。特に詩歌にあっては、重要なのは「の」によって繋がれている言葉です。その言葉がもたらす詩的なイメージの連鎖です。そして、その連鎖が途中でつまずいたり切れたりせずに、すなおにスーと流れる役割を「の」が果たしているのです。こんなことパソコンに説いても無駄でしょうけど。

 《「の」の連続》の歌をもうひとつ。教科書にも載っている有名な歌です。

 
いはばしる垂水たるみの上のさわらびの づる春になりにけるかも (巻8・1418)
 (岩にほとばしる滝の上のワラビが萌え出る春になったのだなあ)

 近代短歌にも《「の」の連続》がありますよ。

 ゆく秋の 大和やまとの国の薬師寺の 塔の上なるひとひらの雲



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