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さくら野歌壇

万葉恋歌

中西進博士の文庫本『万葉集』(講談社文庫)を読む

                     上野亮介



 第83葉 (巻4・514)

 わが背子せこが せるころもの 針目はりめ落ちず りにけらしも わがこころさへ

 私の夫が着る衣の、その針目のひとつひとつに残らず入ってしまったようです、私の心までもが。

 作者は
阿倍あべの女郎いらつめ。この衣は、夫のために彼女が縫ったということが、歌の行間からわかります。裁縫の針目に、糸だけでなく心も入ったというのですから。「落ちず」は「欠落することなく全部」という意味。彼女が着物を縫っているとき、針が布に刺さって糸が通るたびに、縫い上げるまでの膨大な数の小さな針目のすべてに、彼女のこころが注入された。
 女の人には、この心情がわかるにちがいない。現代は家で縫い物をしなくなりましたが、女子高生が彼氏のマフラーを編むときの心がこんな感じなのでしょうね。彼氏は気づいていないけれど、まことに重いマフラーを首に巻くことになる。彼女の強い愛情を宿したマフラーは、不義理や薄情あらば、怨念と化して彼の首を締め上げる。男子生徒諸君はそのことを肝に銘じなければなりません。
 昔の身のまわりの品は手作りが多く、それぞれの品物には作った人の心が宿っていました。愛や魂が身近に濃厚に充満していたのです。この歌は、そんな生活の中から生まれたものです。愛を愛として歌うのではなく、裁縫という行為を通して歌っています。むしろその方が、愛情の表現として強烈です。



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